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何時半次郎のKenBunLog

プロフィール

ブログ名
何時半次郎のKenBunLog
ブログ紹介
高橋 智  たかはし さとし
 (何時半次郎・いづだりはんじろう)

1999年 盛岡驛開業 
       −川口屋荷札店・創業の記憶− 著・発行
2001年 城下盛岡旧町名・べんじぇもの探求地図 製作
2002年 城下盛岡旧町名探求地図 製作
2003年 盛岡 水の記憶 108 製作
2004年 盛岡 啄木・賢治「青春の記憶」探求地図 製作
2005年 源義経 夢の跡 探求地図 製作
2006年 盛岡天満宮狛犬ミニチュア(南部鉄器)製作企画
        【盛岡ブランド認証 一般82号】
2006年 盛岡城跡公園ガイドマップ 編集・製作
2008年 岩手県立図書館企画展に荷札資料出展
       「鉄道開通 〜鉄道史から見た岩手の近代化〜」
2008年 盛岡町家 旧暦の雛祭りポスターデザイン
       南部盛岡擬宝珠神籤 製作企画
2009年 盛岡天満宮鎮座 狛犬「石馬」宝来鈴付木札根付 製作企画
        【盛岡ブランド認証 一般158号】
2009年 啄木弁当風呂敷 製作企画
        【盛岡ブランド認証 一般166号】
2010年 文化地層研究会発足10周年記念特別企画展
       「地図から辿る盛岡の記憶」 開催
2010年 盛岡タイムス社発行「盛岡古地図U」地図原本協力
2010年 盛岡町家 旧暦の雛祭りポスターデザイン
2010年 盛岡100年街道 製作
2010年 岩手県岩手郡岩手町
       「岩手キャベツ物語」 荷札資料提供・出展

このBlogは、半次郎が股旅気分で日常雑記や散歩から旅行までの見聞を記すものです。(箱根八里の半次郎気分ですぅ〜)

写真は、2005年6月5日 花巻−大阪(伊丹)間 上空にて撮影
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寺院奉拝香巡礼 その2

2011/11/20 11:03
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奈良・興福寺「幸福薫可」
香十徳
感格鬼神 かんはきじんにいたる(感覚が研ぎ澄まされる)
清浄心身 こころをきよらかにす(心身を清浄にする)
能除汚穢 よくけがれをのぞく(よく汚穢を払う)
能覚睡眠 よくねむりをさます(よく睡眠を覚ます)
静中成友 せいちゅうにともとなる(静かな中で友となる)
塵裏偸閑 ぢんりにひまをぬすむ(仕事中に一息つける)
多而不厭 おおくしていとわず(多く使っても嫌にならない)
募而為足 すくなくしてたれりとなす(少なくても足りる)
久蔵不朽 ひさしくたくわえてくちす(永い間貯蔵しても朽ちない)
常用無障 つねにもちいてさわりなし(常に用いても害がない)

京都山田松香本店


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奈良・唐招提寺「鑑真香」
今から一千三百年ほど昔、鑑真和上は幾度もの苦難を越えて日本に辿り着かれました。その折、多くの経典と漢方薬五百余斤、お香六百余斤や漢方薬の調合法、お香の調合法に関する書物を携えて来られたのです。
現在使われているお香の原材料はこの時日本に紹介され、その中の麝香、沈香、甲香、甘松香、竜脳、安息香、零陵香、青木香、薫陸香などは代表的な香料となっています。
この鑑真香はこれらの漢方香料を中心に調合し、それぞれの香りの特徴を十分活かすように調整したお線香です。焚いている時の芳香、焚き終わった後に残る落ち着いた香り、その双方をお楽しみ下さい。


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奈良・薬師寺「瑠璃光」
大海人皇子・おおあまのおうじは壬申の乱の戦に勝利をおさめ、飛鳥浄御原宮・きよみがはらみやに天武天皇として即位されました。そして即位八年(六八〇)、苦難を共に乗り越えてこられた最愛の妻である皇后が病に倒れ、その病気平癒を祈願して創建されたのが薬師寺です。それから七年後、薬師寺いまだ完成せずして天皇は亡くなられました。夫の遺志を受け、続いて即位された皇后(第四十一代持統天皇)は、自分のために夫帝が発願されたこの薬師寺七堂伽藍を六九八年ついに完成されました。発願より十八年の歳月が費やされました。
その後いく度かの盛衰を繰返し、享禄元年(一五二八)九月七日、兵火により金堂、講堂、中門、西塔、僧坊、回廊等の悉くを消失させてしまいました。これらの堂宇の再建は薬師寺永年の悲願でしたが、昭和の御代に結集した善男善女のお写経の功徳によって昭和五十一年に金堂、五十六年に西塔の復興が成り、白鳳のいぶきを甦らせることができたのです。
奈良 薬師寺


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奈良・奈良国立博物館「五弦の琵琶」
聖武天皇遺愛の品々を収めた正倉院の名品、『螺鈿紫檀五弦琵琶』は、インドで生まれ、北魏に入り、唐代に至って完成されましたが、その後廃絶し、現存するのは、正倉院の宝物である五弦の琵琶が唯ひとつとなりました。
シルクロードの旅をして奈良へ
西方の香りを運んできた琵琶が、澄んだ空気をかすかに揺らす音色も聞こえるような香りを漂わせます。
◆香木白檀と生薬のあたたかみのある香りです。


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奈良・東大寺「東大寺香」
※説明・栞なし

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第63回 正倉院展に行ってきました!

2011/11/11 15:41
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お天気の合間をぬったように、日中は暑いくらいの好天候に恵まれて第63回正倉院展を見学してきました。
私が奈良国立博物館に踏み入れるのもはじめて、まして正倉院展もはじめてという具合でござんしたのっス。

金銀鈿荘唐大刀・紅牙撥鏤尺・碧地金銀絵箱・金銅華鬘形裁文など、時間の経過を感じさせなかったり、それだけ昔のものの不思議さを感じさせながらも一番は黄熟香といわれる通称「蘭奢待」。このランジャタイの文字の中に「東大寺」の文字が隠されているというところからもなんともたまりませんね。さらにそのブツは巨大。こんなに大きいのから切り取っちゃったのね…。

興福寺の塔の横に登った月に、いにしえのまほろばを感じずにはいられない半次郎でした。
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辰野・葛西建築の美 岩手銀行中ノ橋支店全容現る

2011/11/02 13:25
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2011年11月2日現在の写真です。
重要文化財の岩手銀行中ノ橋支店が全容を現しました。とくに煙突の具合なんかたまりません。
ここを借景にお茶・お食事・お酒…とこの建物と中津川の様子を眺めるスペースがぜひとも欲しいものです。竣工100年目にして現れたこの面もキレイに活かして後世に伝えてほしいと思う半次郎です。

この建物とほぼ同じ形のドームを持つ建物で、2年早くに造られたのが福岡の福岡市文学館(通称赤煉瓦文化館)で、そちらの説明は
建物は建築家辰野金吾工学博士、片岡安工学士の設計。
日本生命保険株式会社九州支店として明治42年(1909)2月竣工。
ドームや小塔、屋根窓を配した銅板葺きの屋根や赤煉瓦と白い花崗岩の外壁は、19世紀末の英国様式を応用。
昭和44年(1969)3月に国の重要文化財に指定されたのを機に福岡市に譲渡。長く歴史資料館として活用された後、平成6年(1994)2月から赤煉瓦文化館 として市民に親しまれ、平成14年(2002)5月に福岡市文学館を開設。
となっています。
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盛岡伝説案内 其の八拾弐 如水の赤合子

2011/10/30 13:04
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 桃山時代の『銀白檀塗合子形兜』が、もりおか歴史文化館にあります。これは黒田藩(福岡県)の戦国時代から江戸時代前期にかけての武将であり豊前国中津城主、そして豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍して「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名の黒田孝高(孝高は諱で通称の「官兵衛」や出家後の「如水」の号で有名)の奥方、光の方が孝高に嫁ぐ前の永禄10(1566)年、志方城の城主櫛橋伊定から贈られたものです。如水は、死の間際に家臣である栗山利安にこれを贈っています。本来ならば息子の長政に与えるところですが、長政が国政を立派に行うよう、その補佐として後見を頼むという意味がありました。この兜は後に起きた黒田騒動で利安の子である栗山利章(大膳)が盛岡へ流された後、盛岡藩主へ献上されたという経緯があるものです。
 兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、独特な兵法にて戦場では敵に大変恐れられました。外鉢の高さ28・2p、前後の径が27・8p。合子とは蓋付の漆椀などの器のことを指し、鉄6枚張椎形の内鉢の上に薄手の鉄張で椀形の外鉢をかぶせて朱、銀、錫を箔押した上に生漆をかけた戦国時代の変わり兜のひとつでもあります。
 このような謂われのある兜をはじめ、栗山大膳の墓が盛岡にあることはあまり知られていないようですが、現在の盛岡へ受け継がれた文化の流れの礎に栗山大膳や方長老が関わったことは外すことができません。
写真は愛宕山にある栗山大膳の墓
『街もりおか 2011 10月号』掲載
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盛岡伝説案内 其の八拾壱 盛岡山車

2011/10/30 13:00
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 例年9月14日から3日間、盛岡八幡宮の例大祭が開催されます。八幡宮はもとは県社で盛岡総鎮守として崇められ、古くから「南部盛岡祭り」として賑わいました。八幡宮の位置は早池峯山妙泉寺の宿寺のあったところで、寛文11(1671)年に29代藩主南部重信の時、世子行信の希望で加賀野の大日(妙泉寺山)に宿寺を移し、その跡を整備して延宝7(1679)年社殿を創建、馬場を築き、一面田畑であった場所に参道として道を設けたのが八幡丁の始まりです。翌8年の例祭からは流鏑馬も行われるようになり、天和2(1682)年には「馬責め」という行事に変わったものの文政年中に再び流鏑馬となりました。
 この祭りにつきものの御輿渡御に続く仁和賀や山車は、今から三百年前の宝永6年頃には始まっていたようで、享和3(1803)年の記録によると司馬温公や国姓爺、竜宮城などはあまりにも大きいので(もりおか歴史文化館の山車をご覧ください)内丸御門内に入ることができず、中の橋端に控えたとされています。また、万燈もこの御供に加わり、往時のものは手持ちではなく、大八車に大行灯を仕掛け、これに武者絵を描いて子どもが引き、囃子方が付くものであったようです(現在では、馬頭観音のお祭りの行灯山車のようなものでしょう)。幕末頃の山車の様子は「盛岡八幡宮祭礼番組」でうかがうことができます。
 明治30年代後半から電灯が普及し、家ごとに張られた電線が障害物となって、山車は現在の大きさになりました。
『街もりおか 2011 9月号』掲載
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盛岡伝説案内 其の八拾 盛岡城に仰ぐ北極星

2011/10/30 12:57
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 文治5(1189)年に源頼朝は平泉の藤原氏を攻め、甲州から馳せ参じた加賀美三郎光行も従って遂に藤原氏を滅ぼしてしまいます。頼朝は戦功の賞として厨川の地を工藤氏へ、県南地方は葛西氏へ、糠部地方を光行に与えました。よって建久年間に光行は鎌倉から船出をすると現在の八戸付近に到着。以来、南部の地を治めるにあたり、南部を名乗り、現在の八戸市内には根城、時代を経て現在の青森県三戸郡には三戸城を構えました。その後も戦乱を乗り越えながら南部氏は津軽から閉伊の領土も治めるに至りました。
 天正19(1591)年、26代信直の時の九戸政実の乱の後、津軽を失った信直に紫波・稗貫・和賀の三郡を新規に所領することを許します。穀倉地帯を収めたことに伴い、伊達藩に備える意味をもって信直は秀吉の重臣浅野長政の薦めにより北上川と中津川に囲まれた丘陵岩手郷古中野不来方の地に築城移転することを決断しました。これが現在に至る盛岡城跡公園です。
 文禄年間に縄張をはじめ、総奉行に27代利直をあて、奉行頭には重臣の八戸・桜庭・中野・石井・大光寺らが当たりました。この工事に動員された人夫は1日当たり2千人以上であったといわれています。築城の普請時は秀吉の朝鮮出兵の時期に重なり、信直は秀吉に従って肥前名護屋に陣を置いていました。ここから築城について指示する書状を国許へ送っています。盛岡城は慶長年間中頃にほぼ完成を見ますが、盛岡砂子によると28代重直の寛永10(1633)年頃に完成して永代の居城となったようです。
 盛岡城を真南から眺めると本丸に御三階、淡路丸に二階の大櫓がある様が、あたかも五重の櫓のように見えたといわれます。この上の夜空に北極星が輝いていることは、今も当時と変わらないのです。
『街もりおか 2011 8月号』より
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盛岡伝説案内 其の七拾九 啄木と珈琲の香り

2011/10/30 12:54
 日本最初の喫茶店発祥の地というのは、現在の東京都台東区上野1丁目(上野西黒門町)で、湯島駅から東に200メートルほど行った三洋電機東京ビルの北東の隅に、明治21年4月13日「可否茶館」が設立されたという碑が建っている。
 明治43(1910)年には日本橋小網町に「メイゾン鴻の巣」という日本で最初にカフェーと名のった店がオープンし、フランス式の本格的な深煎り珈琲を出していた。明治42(1909)年に森鴎外が指導者となって創刊された文芸雑誌「スバル」に参加したメンバーは、毎月このメイゾン鴻の巣で会合を開いたという。参加者は北原白秋、石川啄木、与謝野鉄幹、小山内薫、永井荷風、木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎、谷崎潤一郎などである。
 この会は「パンの会」と呼ばれ、珈琲愛好会ともいえる会だったのではという説がある(パンの会のパンとは、ギリシア神話に出てくるパーンのことで羊飼いと羊の群れを監視する神の名であるという)。パンの会について啄木は日記に幾度か書き込んでいるものの、実際に顔を出したのはただ1回のみとされ、北原白秋から見れば「彼の貧苦が、私たちパンの会の狂ひょう時代に於ける彼の諸友から彼自らを遠ざかしめて了った。彼は負けずぎらいであった」。吉田弧羊からは、「出費が嵩むことから参加を続けることは難しかったのだろう」といわれ、自分の雑誌を発行すべく『樹木と果実』の方向に向かったのだとしている。
 さらに啄木日記から明治41(1908)年8月18日の記述に「カツフヒーにて晩食。(原文まま)」とあり、ほかにもコーヒー豆を購入したことやパンを囓ったことなどが記されている。
 現在、その当時の珈琲の面影を知ることができるのは銀座カフェパウリスタであるが、開店したのは明治44(1911)年12月12日のこと。この店は、ブラジル産の珈琲であり、「銀座でブラジルの珈琲をいただく」ことから「銀ブラ」の愛称が発祥したといわれている。
『街もりおか 2011 7月号』掲載
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