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みんなの「盛岡伝説案内」ブログ


盛岡伝説案内 其の五拾六 アンジェラスの鐘

2012/02/18 13:22
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 全国各地の教会に「アンジェラス(アンゼラスとも)」と呼ばれる鐘があります。特に有名なのは、長崎・浦上天主堂の鐘で永井隆博士が1945(昭和20)年の原爆を機に著した「長崎の鐘」や、サトウハチロー作詞で藤山一郎が歌う「長崎の鐘」は大ヒットしました。
 盛岡にも1900(明治33)年にフランスから送られてきた「アンジェラスの鐘」があります。この鐘が今も鳴り続けているのは、岩手県最初の聖堂で1880(明治13)年に建てられた四ツ家天主教会。鐘が届いたことにより、鐘楼を増築して建物とともに鐘の音は市民に親しまれていたのですが、老朽化により、聖堂の建物は盛岡大学附属高等学校の敷地に移築されて当時の面影を残し、教会は1978(昭和53)年に現在の姿になりました。
 しかし、初めに聞き慣れない鐘の音を耳にした市民は、新聞社に次のような投書をしています。
 「一昨日、八日町を午後6時頃に通行したら半鐘の音がするので火事かと思ったら耶蘇(キリスト教・イエス=キリストの中国語表記)では毎日、日に三回鐘を打つそうだがよろしくない。治安に妨害だ」
 その聖堂は、石川啄木の小説「葬列」や宮沢賢治の「浮世絵」にも登場しているようです。つまり、啄木や賢治も、今も鳴り続けるこの鐘の音を耳にしていたことは言うまでもありません。
撮影協力:カトリック四ツ家教会・真山重博

街 もりおか 2009 8月号 掲載
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盛岡伝説案内 其の八拾四 重直公の大蛇退治

2012/02/03 11:42
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 南部家28代重直公が現在の土淵地区に狩りに赴き、泉寿院という山伏の屋敷で休みました。重直公は、狩りに出かける準備の最中に気味の悪い異様な物音に気づき、泉寿院に尋ねると「近頃、北野(滝沢南中学校の西付近)の谷地(諸葛川の流域)に大蛇が現れて村人を困らせていまして、その大蛇の鼾ではないか」とのこと。重直公は「予が退治してくれようぞ」と鉄砲を手に北野に向かいました。
 すると春の陽気に誘われて谷地に横たわって鼾をかいている大蛇がそこにいるではありませんか。「世に希なる大蛇め」とドンと一発鉄砲を撃ち込むと大蛇は火を吹いて空に舞い上がり、胴体が七つに分かれて飛び散りました。大蛇の最後の様に恐れを感じた重直公は、城に駆け戻ると城中に弁財天を祀って大蛇の成仏と領土の平安を祈りました。
 村人は、大蛇の頭が落ちた場所(東北自動車道盛岡インターチェンジの西・大釜駅の東1・2キロメートル付近)に御堂を建てて大蛇の霊を弔い、村の平安と安全を祈りました。ここは、当初「巳山神社」とされていましたが、のちに「神山神社」となり「みやまじんじゃ」と呼ばれるようになったといわれています。
 村落の親睦を図る娯楽場で技量・力量を発揮した力比べを偲ぶ「八斗石」も境内に祀られています。

(街 もりおか 2011 12月号 掲載)
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盛岡伝説案内 其の八拾参 原敬がつけた酒の銘

2012/02/03 11:37
 今年も11月4日に原敬の命日を迎えますが、原を取り巻いた時間の流れを辿るには、今となっては『原敬日記』に頼る以外の術がありません。
 ネット画面上から原敬が名付けたお酒「東長」というものを見つけました。この話にはいくつかの説がありますが、残念ながら原本人が記した日記には、一片たりともこのことが記されていません。原が大変お酒が好きだったことは他の逸話からもうかがうことができるわけですが、酒の銘を付けるのも宴の席のことだったようで、それを忘れるほどだったかどうかまでも、もちろん記されていなかったのです。
 佐賀県嬉野市塩田町に瀬頭酒造があり、現在でも銘酒として「東長」という銘のお酒は製造され、販売されています。一説では大正5(1916)年4月19〜22日に原が佐賀を訪れた際、老舗料亭揚柳亭でのこと。瀬頭酒造の当主は村長をしており、官民合同の歓迎会に臨席した際に酒を持ち込んで銘を付けて戴いたというもの。二説めは瀬頭酒造の当主は政友会党員であり、首相と交流もあって、大正9(1920)年の長崎で行われた海軍大演習の際に原と会って名付けていただいたというもの。しかし、これについて長崎で演習があったことや、当主が党員であったことなどの裏を取れる資料がありません。
 三説めの仮説を私が勝手に考えました。原は大正5年4月22〜24日まで長崎に滞在し、製造中の軍艦を視察しているのですが、これを長崎海軍大演習と間違えたのでは? と。長崎でも歓迎会などの食事の席(酒席)は何度も設けられていて、そのような名付けのチャンスはうかがえます。しかし、年代の違い、史実の違いなどからあまりにも本当かどうか疑わしいものでしかありません。
 原敬から酔い心地のさわやかさ、おおらかさを「アヅマの国のオサ、すなわち東洋の王者にふさわしい」とお褒めをいただき「東長」という名をいただいたという美談なのですが……。調べる手段のない酒談になってしまいました。〈原敬記念館に調査ご協力いただきました。ありがとうございました〉
(街 もりおか 2011 11月号 掲載)

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盛岡伝説案内 其の八拾弐 如水の赤合子

2011/10/30 13:04
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 桃山時代の『銀白檀塗合子形兜』が、もりおか歴史文化館にあります。これは黒田藩(福岡県)の戦国時代から江戸時代前期にかけての武将であり豊前国中津城主、そして豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍して「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名の黒田孝高(孝高は諱で通称の「官兵衛」や出家後の「如水」の号で有名)の奥方、光の方が孝高に嫁ぐ前の永禄10(1566)年、志方城の城主櫛橋伊定から贈られたものです。如水は、死の間際に家臣である栗山利安にこれを贈っています。本来ならば息子の長政に与えるところですが、長政が国政を立派に行うよう、その補佐として後見を頼むという意味がありました。この兜は後に起きた黒田騒動で利安の子である栗山利章(大膳)が盛岡へ流された後、盛岡藩主へ献上されたという経緯があるものです。
 兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、独特な兵法にて戦場では敵に大変恐れられました。外鉢の高さ28・2p、前後の径が27・8p。合子とは蓋付の漆椀などの器のことを指し、鉄6枚張椎形の内鉢の上に薄手の鉄張で椀形の外鉢をかぶせて朱、銀、錫を箔押した上に生漆をかけた戦国時代の変わり兜のひとつでもあります。
 このような謂われのある兜をはじめ、栗山大膳の墓が盛岡にあることはあまり知られていないようですが、現在の盛岡へ受け継がれた文化の流れの礎に栗山大膳や方長老が関わったことは外すことができません。
写真は愛宕山にある栗山大膳の墓
『街もりおか 2011 10月号』掲載
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盛岡伝説案内 其の八拾壱 盛岡山車

2011/10/30 13:00
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 例年9月14日から3日間、盛岡八幡宮の例大祭が開催されます。八幡宮はもとは県社で盛岡総鎮守として崇められ、古くから「南部盛岡祭り」として賑わいました。八幡宮の位置は早池峯山妙泉寺の宿寺のあったところで、寛文11(1671)年に29代藩主南部重信の時、世子行信の希望で加賀野の大日(妙泉寺山)に宿寺を移し、その跡を整備して延宝7(1679)年社殿を創建、馬場を築き、一面田畑であった場所に参道として道を設けたのが八幡丁の始まりです。翌8年の例祭からは流鏑馬も行われるようになり、天和2(1682)年には「馬責め」という行事に変わったものの文政年中に再び流鏑馬となりました。
 この祭りにつきものの御輿渡御に続く仁和賀や山車は、今から三百年前の宝永6年頃には始まっていたようで、享和3(1803)年の記録によると司馬温公や国姓爺、竜宮城などはあまりにも大きいので(もりおか歴史文化館の山車をご覧ください)内丸御門内に入ることができず、中の橋端に控えたとされています。また、万燈もこの御供に加わり、往時のものは手持ちではなく、大八車に大行灯を仕掛け、これに武者絵を描いて子どもが引き、囃子方が付くものであったようです(現在では、馬頭観音のお祭りの行灯山車のようなものでしょう)。幕末頃の山車の様子は「盛岡八幡宮祭礼番組」でうかがうことができます。
 明治30年代後半から電灯が普及し、家ごとに張られた電線が障害物となって、山車は現在の大きさになりました。
『街もりおか 2011 9月号』掲載
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盛岡伝説案内 其の八拾 盛岡城に仰ぐ北極星

2011/10/30 12:57
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 文治5(1189)年に源頼朝は平泉の藤原氏を攻め、甲州から馳せ参じた加賀美三郎光行も従って遂に藤原氏を滅ぼしてしまいます。頼朝は戦功の賞として厨川の地を工藤氏へ、県南地方は葛西氏へ、糠部地方を光行に与えました。よって建久年間に光行は鎌倉から船出をすると現在の八戸付近に到着。以来、南部の地を治めるにあたり、南部を名乗り、現在の八戸市内には根城、時代を経て現在の青森県三戸郡には三戸城を構えました。その後も戦乱を乗り越えながら南部氏は津軽から閉伊の領土も治めるに至りました。
 天正19(1591)年、26代信直の時の九戸政実の乱の後、津軽を失った信直に紫波・稗貫・和賀の三郡を新規に所領することを許します。穀倉地帯を収めたことに伴い、伊達藩に備える意味をもって信直は秀吉の重臣浅野長政の薦めにより北上川と中津川に囲まれた丘陵岩手郷古中野不来方の地に築城移転することを決断しました。これが現在に至る盛岡城跡公園です。
 文禄年間に縄張をはじめ、総奉行に27代利直をあて、奉行頭には重臣の八戸・桜庭・中野・石井・大光寺らが当たりました。この工事に動員された人夫は1日当たり2千人以上であったといわれています。築城の普請時は秀吉の朝鮮出兵の時期に重なり、信直は秀吉に従って肥前名護屋に陣を置いていました。ここから築城について指示する書状を国許へ送っています。盛岡城は慶長年間中頃にほぼ完成を見ますが、盛岡砂子によると28代重直の寛永10(1633)年頃に完成して永代の居城となったようです。
 盛岡城を真南から眺めると本丸に御三階、淡路丸に二階の大櫓がある様が、あたかも五重の櫓のように見えたといわれます。この上の夜空に北極星が輝いていることは、今も当時と変わらないのです。
『街もりおか 2011 8月号』より
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盛岡伝説案内 其の七拾九 啄木と珈琲の香り

2011/10/30 12:54
 日本最初の喫茶店発祥の地というのは、現在の東京都台東区上野1丁目(上野西黒門町)で、湯島駅から東に200メートルほど行った三洋電機東京ビルの北東の隅に、明治21年4月13日「可否茶館」が設立されたという碑が建っている。
 明治43(1910)年には日本橋小網町に「メイゾン鴻の巣」という日本で最初にカフェーと名のった店がオープンし、フランス式の本格的な深煎り珈琲を出していた。明治42(1909)年に森鴎外が指導者となって創刊された文芸雑誌「スバル」に参加したメンバーは、毎月このメイゾン鴻の巣で会合を開いたという。参加者は北原白秋、石川啄木、与謝野鉄幹、小山内薫、永井荷風、木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎、谷崎潤一郎などである。
 この会は「パンの会」と呼ばれ、珈琲愛好会ともいえる会だったのではという説がある(パンの会のパンとは、ギリシア神話に出てくるパーンのことで羊飼いと羊の群れを監視する神の名であるという)。パンの会について啄木は日記に幾度か書き込んでいるものの、実際に顔を出したのはただ1回のみとされ、北原白秋から見れば「彼の貧苦が、私たちパンの会の狂ひょう時代に於ける彼の諸友から彼自らを遠ざかしめて了った。彼は負けずぎらいであった」。吉田弧羊からは、「出費が嵩むことから参加を続けることは難しかったのだろう」といわれ、自分の雑誌を発行すべく『樹木と果実』の方向に向かったのだとしている。
 さらに啄木日記から明治41(1908)年8月18日の記述に「カツフヒーにて晩食。(原文まま)」とあり、ほかにもコーヒー豆を購入したことやパンを囓ったことなどが記されている。
 現在、その当時の珈琲の面影を知ることができるのは銀座カフェパウリスタであるが、開店したのは明治44(1911)年12月12日のこと。この店は、ブラジル産の珈琲であり、「銀座でブラジルの珈琲をいただく」ことから「銀ブラ」の愛称が発祥したといわれている。
『街もりおか 2011 7月号』掲載
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盛岡伝説案内 其の七拾八 三閉伊一揆の記憶

2011/10/30 12:52
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 三閉伊一揆とは佐々木弥五兵衛が指導した弘化4(1847)年と、畠山太助が指導した嘉永6(1853)年の二度の一揆のことを指し、今年は一揆から158年になります。これは、野田通、宮古通、大槌通の住民が起こしたもので、理由は盛岡藩の重税であり、結果日本近世で唯一証文を勝ち取ったものとして知られています。
 弘化の一揆は遠野藩に直訴。要求の一部は認められたものの弥五兵衛は捕えられて獄死。結局何も変わることはありませんでした。嘉永の一揆は約束を反故にされたうえ、負担増になったことが起因となり、仙台藩に越訴し、盛岡藩が要求を受け入れる形となりました。太助はその後、明治6(1873)年、地租改正に反対する一揆の計画に連座した嫌疑で盛岡に連行されてしまいます。取り調べで停泊していたのが旧油町の牛方宿・平野旅館(河内屋権兵衛)で、5月27日の朝、裏手の厩で首を吊り自殺します。連日厳しい拷問を受けていたといわれ、享年58でした。平野家では菩提寺の本誓寺同家の墓所に太助を埋葬、墓碑を建てて現在も守り続けています。
 また、この平野旅館の建物は、村松友視原作の映画「時代屋の女房」(1982撮影)にも登場した趣ある店構えで、さらにこの界隈は、野田街道の起点にあたり、上の橋上流には牛越場の名残もある場所です。
 田野畑村民俗資料館の側には「一揆の像」があり、座っているのが弥五兵衛、立っているのが太助で、これは昭和46(1971)年に宮古市出身の美術家吉川保正氏によって製作されました。この像型が盛岡報恩寺の五百羅漢堂につづく廊下「鋳金原型堂」に保管されています。(写真は畠山太助の墓碑)
『街もりおか 2011 6月号』掲載
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盛岡伝説案内 其の七拾七 貞婦おかん

2011/10/30 12:48
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 九戸城主政実が南部信直にそむいて滅ぼされた時、その一族である畠山重勝は自刃してしまい、その娘おかんは遺言によって従僕三平と結婚します。その後、慶長時代に入ると南部利直が盛岡城築城にあたり、三平は人夫となって働きますが両足を負傷して立つことができなくなると生活に窮しました。そこでおかんは夫の代わりに人夫として働きます。
 しかし、人夫頭の高橋軍太は美しいおかんによこしまな思いをよせて困らせるようになりました。危険を知ったおかんは、思案のあげくに「夫三平を殺したらその意に従う」とあざむきます。ある日おかんは三平の姿に仮装して馬に乗ると御堂の観音に詣でました。その帰途、邪恋に迷う軍太はそれをめがけて鉄砲を撃ち放ちます。軍太が走り寄って見るとそれは三平ではなく、おかんでした。意外な事態に驚いた軍太は、おかんを抱き寄せて訳を聞くと「いかに貧困でも不具の夫を捨てることはできない。身を殺して貞操を守ったのだ」と答えて息を引き取ります。
 軍太は己の罪を悔い、仏門に入ると「浄覚」と名乗り、おかんの菩提を弔うとともに、不具の三平とその子を養って生涯を送りました。
 おかんの墓碑は旧油町大泉寺の山門脇にあり、乗せられた小石でたたくと良い音が響いて、「かんから石」とも呼ばれてきました。
『街もりおか2011 5月号』掲載
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盛岡伝説案内 其の七拾六 岩手甘藍誕生

2011/10/30 12:44
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 岩手におけるキャベツの産地「岩手町」の最盛期は、昭和の戦前から戦後にかけてであり、昭和25(1950)年ゴマ病の大発生を乗り越えて「南部甘藍」は脚光をあびたものの長野、群馬産に追い抜かれてその後衰退の一途をたどる。
 日本においてキャベツは幕末期に外国人居留地へ導入されたとみられ、横浜近郊で栽培を行っている。明治4(1871)年には開拓使が札幌で試作を開始。内藤新宿試験場では明治7年以降、全国に種子を配布し、栽培適地を求めた。盛岡での種子入手については、仙北町の山清商店・高吉商店(現・高橋種苗店)が中心となり、神子田町の工藤惣太郎が育成に着手。明治35(1902)年の暮れに冬季貯蔵用としてバンダーゴーとアーリーサンマーを窖に埋めておき(土中に貯蔵)、翌春には残余が腐敗していたため畑に放置したところ、枯死せずに茎を伸ばして開花。その中から優勢3株を結実させ、採種に成功した。これが「南部甘藍」の誕生になるという。
 地元では「玉菜」の愛称で知られ、「南部甘藍」と呼称。移出の際には「岩手甘藍」の荷札が付けられた。
 甘藍・キャベツとともに生きて育てる岩手町では、昨年暮れに『岩手キャベツ物語』を刊行している。
『街もりおか2011 4月号』掲載
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タイトル 日 時
盛岡伝説案内 其の七拾伍 ハリストス正教会
盛岡伝説案内 其の七拾伍 ハリストス正教会  1861(文久元)年6月14日、ニコライ修道神父が函館ロシア領事館に到着し、日本で伝道を開始したといわれています。ニコライ神父は南部藩の陣屋(南部坂の上、現在の函館壱番館)があった隣に住まいして、南部なまりの老婆に日本語を習ったため、神父の日本語は南部なまりだったそうです。  宗教法人日本ハリストス正教会の本部は、東京都千代田区神田駿河台のニコライ堂で、与謝野晶子の「ニコライのドオムの見ゆる小二階の欄干の下の朝がほの花」でも有名です。  明治元年、南部藩士多数が函館に渡って洗礼を受... ...続きを見る

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2011/10/30 12:40
盛岡伝説案内 其の七拾四 ヘレン・ケラー来盛
盛岡伝説案内 其の七拾四 ヘレン・ケラー来盛  ヘレン・ケラーこと「ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller1880─1968)」は、2歳の時の高熱で生涯、聴力・視力・言葉を失う三重苦を背負うことになるが、その人生の中で三度来日している。初めて来日した際の行程は次のようなものであった。  1937(昭和12)年4月15日、横浜港に到着したあとすぐに新宿御苑へ行き、そこで開催されていた観桜会で昭和天皇に拝謁している。この来日で彼女は「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。さらに秋田犬を所望すると後に... ...続きを見る

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2011/03/18 13:38
盛岡伝説案内 其の七拾参 三面地蔵尊
盛岡伝説案内 其の七拾参 三面地蔵尊  三面といえば、遷都一三〇〇年とともに奈良興福寺の「阿修羅像」が話題となった昨年でした。三面で全国的に有名なのは「三面大黒天」で、豊臣秀吉が信仰していた逸話があります。盛岡では、「開運三面尊天・報恩寺五百羅漢堂本尊の真後に安置」や「愛染明王像・旧葺手町長福院、盛岡市文化財」、「馬頭観音の石碑・光台寺覚山地蔵堂前」など、いくつかありますが、なかでも全国的に大変珍しい三面の地蔵尊が鉈屋町にあります。  三面地蔵尊は昭和4年6月27日に建立されました。その経緯はこの地に住む鳥居巳之八(旧川原... ...続きを見る

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2011/03/18 13:35
盛岡伝説案内 其の七拾弐 消え失せそうな安倍足
盛岡伝説案内 其の七拾弐 消え失せそうな安倍足  岩手日報社刊の『岩手の伝説を歩く』には写真まで掲載されていたものの、私はこれまでそのものが何処にあるか辿ることができずにいましたが、以前紹介した山上作太夫(三太夫)のお導きがあってか否か、今回、『安倍足』なるものを取材して、ここに紹介することができました。  伝説はこうです。『安倍貞任を倒したるは鵜飼(滝沢村)の前野にして、その鎧を脱がせ傍の杉の木にかけたれば、その場所を「鎧」と呼んだという。さらに怪異の人物なれば祟りあるべしとして両足を切りて捨て、両手をもぎて捨て、胴を別所に投じた... ...続きを見る

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2011/03/18 13:29
盛岡伝説案内 其の七拾壱 盛岡と山梨の縁
 山梨県身延山は、甲斐の国波木井(はきり)郷の地頭南部実長(さねなが)〈貞応元(1222)−永仁5(1297)・南部家初代光行の三男〉の領地でした。実長は日蓮聖人を招き、文永11(1274)年5月17日に入山、6月17日から鷹取山のふもとの草庵を住まいとさせました。日蓮聖人はこれより9年間法華経の読誦(どくじゅ)と門弟の教導で過ごし、弘安4(1281)年11月24日には堂宇を建築して「身延山久遠寺」と名付けられるに至ります。  宮沢賢治も日蓮宗信者でありましたが、賢治の親友であった保坂嘉内(ほ... ...続きを見る

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2011/03/16 17:28
盛岡伝説案内 其の七拾 山の上作太夫
 南部藩は世に知られた相撲どころで、歴代藩主のなかでも特に行信公や利敬公は相撲好きでした。藩では盛岡八幡宮前、坂の上の南角に相撲場や角屋敷を造り、力士を召し抱えて養成したりもしていました。  延宝年間(1670年代)には、江戸で活躍した大関「山の上作太夫(三太夫・柵太夫とも)」がいました。もとは「山の目作太夫」と呼ばれ、当時の江戸横綱で尾張のお抱え力士「富士山」と取り組み、一度は無念の不覚をとりましたが、甚だ遺恨のことと思い、姫神山に参籠して祈願すると山神が現れて「この子を明朝まで抱きかかえて... ...続きを見る

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2010/12/01 11:13
盛岡伝説案内 其の六拾九 御水主衆と鶴
盛岡伝説案内 其の六拾九 御水主衆と鶴  昔、京都から鉈屋長清という富豪が盛岡に下向した際、「釶屋山菩提院」という寺を建立した。それで「鉈屋町(「釶」と「鉈」は同じ字の意)」という町名がついたとのことであるが、菩提院は斗米(現在の旧葺手町・三明院向かい)に移転したという。  鉈屋町と大慈寺小学校の間あたりに「水主丁」という地名があった。ここに住む者たちは「御水主衆」と呼ばれ、北上川で魚を捕る仕事をしていた。 南部藩主は、御田屋清水の場所で鶴を飼っていたので、その餌として生きたドジョウ・フナ・ハヤなどの小魚が求められ、殿様から扶持を... ...続きを見る

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2010/12/01 10:55
盛岡伝説案内 其の六拾八 キリシタンと原敬と大慈寺
盛岡伝説案内 其の六拾八 キリシタンと原敬と大慈寺  円光寺にある首塚の話は以前に掲載しましたが(2008年4月号)、関連するお話があります。  南部三十代行信の時、原家の先祖にあたる茂兵衛は立身出世して勘定頭となり儒学派の幹部となりましたが、藩主行信は回復の望みが薄い病に伏せました。この行信の世子信恩は、円光寺首塚に埋葬されたキリシタン信者の血を引くため、南部家の世子には不向きであると儒学派の有志は世子廃立の建白書を病床の行信に提出します。意見書を見て驚いた行信は信恩に対し、彼らの処罰を命じて亡くなりました。  信恩が藩主になると、... ...続きを見る

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2010/09/06 15:00
盛岡伝説案内 其の六拾七 銭神様
 むかしむかし、花屋町(現・本町通)になかなか腕の良い金工師が住んでおりましたが、その日暮らしがやっとという有様の貧乏な生活をしておりました。  ある日、金工師が仕事の気休めに庭に出て掃除をしておりますと、突然美しい色のトカゲが庭石の間から現れました。  そのトカゲの走り回る様は、言いようのないほど美しいもので、上手な絵描きでも描き表すことはできないだろうと思われるものでありました。  その様子に見惚れた金工師は、「これは手本なのだ。トカゲの動いている姿を細工してみよう」と、トカゲの姿を模... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

2010/09/06 14:54
盛岡伝説案内 其の六拾六 巌鷲山観世音菩薩
盛岡伝説案内 其の六拾六 巌鷲山観世音菩薩  奈良の大仏建立に携わった行基の開眼によるという観世音菩薩像が、厨川の柵擬定地といわれている天昌寺にある。  坂上田村麻呂がこの観世音菩薩を深く信仰し、延暦23(804)年、東夷征討を平定することに御利益を得、康平5(1062)年には源頼義が安倍貞任を征討する際にも、この尊像の御加護によって平定できたという。このような故事に倣い、源頼朝も信心して礼拝恭敬を怠らなかったと伝えられている。  文治5(1189)年には、頼朝が藤原泰衡を征討した際に、栗谷川の工藤小次郎行光の功績大きく、これ... ...続きを見る

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2010/09/06 14:52
盛岡伝説案内 其の六拾伍 幻の茶の香り
盛岡伝説案内 其の六拾伍 幻の茶の香り  「茶畑」とは八幡宮の山(八幡山)の東側あたりで、昔は簗川の川筋であったという。南部26代信直公が茶を植えさせたことが地名の由来となっている。  寛延2(1749)年の信直公百五十回御遠忌のとき、大工町に住む「浄休」という者から次のような願書が出された。  『恐れながら願い上げ奉ります。私どもの先祖は高村久助と申すものですが、信直公の時代に、天正年中諸国乱世でしばらく宇治から茶が入手できなくなったので、宇治の茶師方へ注文の手紙をやられました。私の先祖は、大和国十市郡高村と申すところの... ...続きを見る

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2010/09/06 14:27
盛岡伝説案内 其の六拾四 日米合作の開運橋
盛岡伝説案内 其の六拾四 日米合作の開運橋  盛岡駅前の北上川に架橋する「開運橋」は、最近になって別称「二度泣き橋」と呼ばれるようになった。この呼び名は、1991年まで日銀盛岡事務所長として赴任していた古江和雄さんが命名したものとして盛岡タイムスに掲載された。  この橋が宮沢賢治の詩に登場するのは、あまり知られていない。 「そら青く/開うんばしのせとものの/らむぷゆかしき冬をもたらす」  これは大正6年の作品で、当時の橋の欄干に瀬戸物製の油壺の付いたオイルランプが設置されていた様子が詠まれている。  最初の開運橋は、明治23年... ...続きを見る

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2010/05/17 17:31
盛岡伝説案内 其の六拾参 伊能忠敬が食した河漏(かろう)
盛岡伝説案内 其の六拾参 伊能忠敬が食した河漏(かろう)  前回に引き続いて、この話は書き留めておきたい。  伊能忠敬が第二次測量で三陸海岸を経て、青森からの帰り(享和元年〈1801〉11月15日〜16日・56歳)に宿泊した盛岡での日記の記述を要約すると「徒士目附 山口傳衛門に会い、殿様から金子が下され、逗留して蕎麦をご馳走になり、軽土産アリ」と記されている。  ここで気になるのは「蕎麦」の文字。『伊能測量隊、東日本をゆく』の著者渡部健三氏は、その本文の中で、「測量日記には、蕎麦ではなく『河漏』と書いてある」と記している。  伊能忠敬記念館に問い... ...続きを見る

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2010/05/17 17:27
盛岡伝説案内 其の六拾弐 盛岡を歩いた伊能忠敬
盛岡伝説案内 其の六拾弐 盛岡を歩いた伊能忠敬  伊能忠敬が17歳で入夫した地元、千葉県香取市佐原では「忠敬さん」と呼ばれている。伊能忠敬といえば言わずと知れた「日本地図の製作者」「測量をした人」である。海岸線を通ったことが印象強いため、内陸を歩いた人とは想像しがたい。しかし、昨年の秋、私は佐原を訪ねる機会に恵まれ、伊能忠敬記念館を見学すると、17年間の測量の動きの中でも初期に、盛岡を三度通っていることがわかった。  一度目は蝦夷と呼ばれた北海道のニシベツ(現:別海町本別海西別川河口南岸・伊能測量の最北端)までの往路(寛政12年〈180... ...続きを見る

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2010/02/17 11:07
伊能忠敬 −盛岡の宿泊地−
伊能忠敬 −盛岡の宿泊地− おかげさまを持ちまして文化地層研究会発足10周年記念特別企画展「地図から辿る盛岡の記憶」が終了いたしました。 1月28日から2月15日の開催17日間で約250名の来場者がありました。 ありがとうございました。 ...続きを見る

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2010/02/17 10:59
盛岡伝説案内 其の六拾壱 虎と道阿弥の茶壺
 徳川家康から拝領した「虎」の顛末については以前に掲載したが、「寅年」にあやかって少し触れてみたい。  南部27代利直が大坂の陣(夏か冬かは不明)の帰り道、駿府(静岡県)の家康のもとに立ち寄り、虎2疋を賜った。盛岡城内の籠で飼うが、年を経て1疋が籠を抜け出すと「利直公淡路丸より二ツ玉をもってお打ち留め……」という説と、「(28代)重直公御城隅御二階御物見より二ツ玉をもって鉄砲にて打ち留めたまう……」との説がある。「虎」を拝領して城内の籠で飼っていたことは確かであるが、拝領の経緯や撃ち殺したのは... ...続きを見る

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2010/01/20 15:35
盛岡伝説案内 其の六拾 比叡山のシダレカツラ
盛岡伝説案内 其の六拾 比叡山のシダレカツラ  「シダレカツラ」という木は、盛岡市(砂子沢)、もしくは花巻市(早池峰山)の原産で世界的にも珍しいものであることは以前に掲載しました(2005/7月号)。その「シダレカツラ」が、京都府比叡山延暦寺の根本中堂前の宮沢賢治碑横にも植えられていることは、あまり知られていません。これは、シダレカツラの増殖に成功した阿部善吉翁と交友のあった宮沢賢治研究家の森荘已池氏の計らいがあって植えたものではないかと推察できます。  宮沢賢治は大正9年、国柱会に入会したことにより日蓮上人に帰依。このことがもと... ...続きを見る

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2009/12/04 12:14
盛岡伝説案内 其の五拾九 食用菊の阿房宮
盛岡伝説案内 其の五拾九 食用菊の阿房宮  中国の伝説では「不老不死の仙人たちの住む里では、菊の葉から滴る露をすすり、菊の花を食べて暮らしている」と伝えられていて、秦の始皇帝は、口にするものは菊の気を移したものにして、他の者がこれを使うことを禁じました。  青森県南の南部地方では古くから「阿房宮」と呼ばれる黄色の食用菊が栽培されています。「阿房宮」とは、始皇帝が長安に築いた宮殿の名前で、火災に遭遇して3カ月間燃え続けたと伝えられるほど壮大なものでした。食用菊に付いたこの名前は、始皇帝の故事に倣い、伝説にあやかったものなのでしょう。... ...続きを見る

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2009/12/04 12:10
盛岡伝説案内 其の五拾八 聖寿寺の五重塔
盛岡伝説案内 其の五拾八 聖寿寺の五重塔  聖寿寺の五重塔は、南部36代利敬の時代、文化5(1808)年6月27日に鍬初め、同8(1811)年7月に完成を見たと伝えられています。  これは、殿様が川原町の大工の棟梁「孫六」を江戸へ上らせて建て方を習わせて建立したもので、南部藩が二十万石の大名になったことを記念したものでもあり、江戸谷中の感応寺(天王寺)の五重塔を模して当時の費用で五千両を要したといわれています。  しかし、明治に入ると寺の財政難により、この塔は上層階から順次売り払われていきました。明治中頃、最下層に手が掛かったと... ...続きを見る

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2009/11/03 12:51
盛岡伝説案内 其の伍拾七  盛岡八幡宮 流鏑馬神事
盛岡伝説案内 其の伍拾七  盛岡八幡宮 流鏑馬神事  南部一族は藩営牧野の牧監を務めてきた家柄であったため、代々の殿様は馬術に優れ、藩士たちは競って馬術に打ち込みました。八戸藩3代通信時代は、櫛引八幡宮(八戸)に奉納される流鏑馬が盛んで、騎馬打球も通信の時に始まったようです。  流鏑馬は建武年間(1334〜1335)、根城南部初代師行の時代に、さびれていた櫛引八幡宮の社料を復活し、祭祀も再興して始めたことに由来します。  のち、延宝9(1681)年には盛岡八幡宮の造営とともに御輿渡御と並んで例祭の中心行事として藩主の命で斎行され始めま... ...続きを見る

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2009/09/23 10:17
盛岡伝説案内 其の五拾五 秋葉神社 三尺坊大権現
盛岡伝説案内 其の五拾五 秋葉神社 三尺坊大権現  いまどき「アキバ」といえば東京・秋葉原であるが、その地名の語源は「秋葉神社」なのだそうである。神社の起源は、静岡県浜松市天竜区春野町領家にある「秋葉山本宮秋葉神社」の「秋葉大権現」。祭神は「火之迦具土大神・ひのかぐつちのおおかみ」。「三尺坊大権現・さんじゃくぼうだいごんげん」を祀る秋葉社と「観世音菩薩」を本尊とする秋葉寺が神仏混淆(しんふつこんこう)となったようで、創起源には諸説あって定かではない。徳川綱吉の治世の頃から神道、仏教にあわせ修験道が混淆して「火防の神」として全国で爆発的に... ...続きを見る

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2009/08/28 16:29
盛岡伝説案内 其の五拾四 チャグチャグ馬コ発祥の地 芋田 駒形神社
盛岡伝説案内 其の五拾四 チャグチャグ馬コ発祥の地 芋田 駒形神社  石川啄木の渋民日記「八月中」には、次のような一文が記されています。 『……この社は、其昔、九郎判官義経が高館の城落ちて、表向きは死んだ風に装ふて潜かに北海へ落人となつた時、其乗馬の斃れたのを葬つた所であるさうな。されば今猶、その馬の足跡を刻んだ石がこの社に残つて居る。又、十町許り離れて武道の部落には、義経が一夜を明かしたといふ判官館といふのがある。……』  その年(明治39年・1906)、8月6日の陰暦6月17日は、芋田(玉山区)にある村社駒形神社の祭典でした。 『……夜の明けぬ... ...続きを見る

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2009/06/22 11:47
盛岡伝説案内 其の五拾参 霊異の竹
盛岡伝説案内 其の五拾参 霊異の竹  私が子どもの頃、盛岡八幡宮拝殿に向かって右側の社務所の前に鬱蒼とした竹藪がありました。しかし、近年八幡さんの建物が整備されてきて、いつの間にかその様子が見えなくなってしまいました。孟宗竹は本来、暖かい地方でないと育たないので、特に冬が厳しいこの盛岡界隈で、これほど大きな竹があるというのは大変珍しいものです。  明治28(1895)年、明治天皇の大婚25年の市民奉賀会が行われました。この時、八幡町の有志が八幡宮に松竹梅の寄せ植えを飾りました。それを中庭に移植したそうですが、それから18... ...続きを見る

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2009/05/23 17:07
盛岡伝説案内 其の五拾弐 長福院の仁王像
盛岡伝説案内 其の五拾弐 長福院の仁王像  盛岡城の鬼門鎮護にあたる永福寺の末寺に斗米山長福院があります。ここの本尊の不動明王像は南部家の守護仏として比叡山から奉安されたものと伝えられています。その名の通り「とっこべ」と呼ばれた葺手町に所在していて、朱塗りの山門には立派な仁王像が祀られているのですが、この像は、一説に運慶の弟子が京都(もしくは江戸)で作ったものを南部の殿様が買い求め、船に積んで北上川を運んだものでした。当初、南部家菩提寺である聖寿禅寺に置かれましたが、明治の廃仏毀釈の難を受け、その後は「ふくべこ山」と呼ば... ...続きを見る

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2009/04/22 10:52
盛岡伝説案内 其の五拾壱 南部十左衛門信景(北十左衛門)
盛岡伝説案内 其の五拾壱 南部十左衛門信景(北十左衛門)  慶長19(1614)年、大阪冬の陣に徳川家康は豊臣秀頼を討つため全国の諸大名を召集。南部27代利直は騎士140、兵卒5千400の大軍を率いて神奈川で将軍徳川秀忠に謁し、予備軍として従いました。その後家康公にも謁します。  戦がはじまると大阪城三ノ丸北方の櫓から射てくる矢の中に「南部十左衛門源信景」の銘があり、この矢は大変徳川方を悩ませました。秀忠はこれを怪しんで利直公を詰問。「もと南部の家臣で北十左衛門という者あり、今は出奔して行方が知れず、考えるにこの十左衛門の仮名では」と徳川方に... ...続きを見る

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2009/02/27 18:37
盛岡伝説案内 其の五拾 金山踊からめ節
盛岡伝説案内 其の五拾 金山踊からめ節  「ハ ドッコイドッコイドッコイナ 田舎なれども南部の国は」で始まる「金山踊」の「からめ節」の由来には次のような話がある。  慶長3(1598)年のこと、南部27代の藩主利直の家臣北十左衛門は、秋田との国境検分のため鹿角に出張して白根付近に泊まりました。その時、ちょうど老婆が土地訴訟の嘆願に来て、地元の名物だといって4尺ばかりの山芋を土産に持って来ます。十左衛門がこれを見ると、付着している赤土に砂金が光っているのに気付き、この芋を掘り出したという白根山で大金鉱を発見しました。大豆や小豆... ...続きを見る

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2009/02/09 10:39
盛岡伝説案内 其の四拾九 塩の道 撫牛さん
盛岡伝説案内 其の四拾九 塩の道 撫牛さん  ある真夏の暑い日のこと、野田からきた背赤の牛が山岸村の阿弥陀堂の庭先で座り込んでしまった。牛はひどい弱り具合で、寓円和尚が庭に出てくると血相を変えた牛方の清右エ門が棒を片手に駆け込んで、今にも牛を打ちのめさんとするばかり。手荒で物騒なことを寺庭でしてはならんと和尚はその訳を尋ねた。  この暑さで牛たちはすぐに座り込もうとするところをなんとか声を掛けて連れてきた。しかし、大志田を過ぎたら川の岸だ。あとちょっとで河権(かわごん・旧油町・平野旅館)だというのに、ふらふらとこの牛が川に入って... ...続きを見る

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2009/01/10 10:17
盛岡伝説案内 其の四拾八  南部の私大
 旧暦は明治5(1871)年12月2日で廃止されて、12月3日が新暦(太陽暦)の元日、明治6(1872)年1月1日となりました。  旧暦で一カ月とは、大の月で30日、小の月が29日でありました。現在のように31日という日はなく、年によっては12月でも29日が大晦日の年もありました。  建久2(1191)年、南部藩祖光行公が新領地糠部に赴任するため73人の御供をつれて甲州を出発、鎌倉の由比ヶ浜から6艘の船に分乗して暮の28日に八戸に着き、相内観音堂で年を越しますが、この12月はあいにく小の月で... ...続きを見る

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2008/12/04 10:14
盛岡伝説案内 其の四拾七 酒買地蔵尊異譚
盛岡伝説案内 其の四拾七 酒買地蔵尊異譚  酒買地蔵さんのお話はまだでしたが、私の記憶と少々違うお話が出てきましたので、「異譚」として掲載しておきます。  毎日寒い日が続き、岩手おろしが吹く頃になった或る夜、酒屋に「私は永祥院に住む者ですが、どうぞ御酒を1升借して下さい」といって地蔵前垂れをした子供が酒を借りにきました。始めのうちは「ハイハイ」と貸していましたが、店の1升樽に小僧が酒をはかると不思議なことに3升分くらい入るのでした。こうしたことが毎晩続き、いつも樽もお金も持って来ないので、ある晩、酒屋の番頭が帰る子供のあとをそ... ...続きを見る

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2008/10/30 11:14
盛岡伝説案内 其の四拾六  四ツ家の地蔵さん
盛岡伝説案内 其の四拾六  四ツ家の地蔵さん  四ツ家のかつて赤川の土橋の脇に祀られているのが通称「田中の地蔵さん」で、昔は北山・聖寿禅寺門前の田圃の中にありました。  この地蔵さんは南部三十代行信の母堂・於俊の方(戒名・大智院殿妙印大姉)が寛文11(1671)年に病気で亡くなられ、孝心深い行信は、聖寿禅寺門前の田中で霊骸を荼毘に付して、この火屋の跡を踏ませないように大きな石の地蔵尊を造り納めたものでした。  このお地蔵さんは、たいへん「小豆餅」が好きだったといいます。ここを通る人達や付近の田畑を耕す農夫達は、「小豆餅」をお供え... ...続きを見る

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2008/10/05 14:14
盛岡伝説案内 其の四拾五 豆腐買地蔵尊異譚
盛岡伝説案内 其の四拾五 豆腐買地蔵尊異譚  寺の下・連正寺に伝わる「豆腐買地蔵尊」のお話は、おかげさまで有名になりましたが、ちょっと違う、酒買地蔵尊風のお話も伝わっています。  寺の下に貧しくも仲むつまじい母子が住んでいて、地蔵尊を信心していました。飢饉(けかち)が続いたある年、母親が「むくみ(栄養失調)」にかかって明日をも知れぬ身になりました。  孝行な息子は、近所の豆腐屋から「おから」を分けてもらって命をつなぎながらも、母親には三度に一度は好物の豆腐汁を食べさせていました。  しかし、無理がたたって息子も倒れ、餓死を待... ...続きを見る

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2008/09/03 12:58
盛岡伝説案内 其の四拾四  歯生の弥陀・はおいのみだ
盛岡伝説案内 其の四拾四  歯生の弥陀・はおいのみだ  前回は仏像の首と胴体が別々だったという徳玄寺の本尊のお話でしたが、今回も全く同様のお話で、しかも徳玄寺の隣の吉祥寺のお話です。  吉祥寺の本尊は開山した秀廓和尚が迎えた「阿弥陀如来像」で、口もとに螺鈿の白い歯が埋め込まれ、茨城県・神奈川県・静岡県に並んで全国にも4体しかないという珍しい「歯」のある仏像で『歯生の弥陀』と呼ばれています。この本尊は「首なし弥陀」とも呼ばれ、頭と胴体が別々のものであったと伝えられています。  吉祥寺開山の時に本尊として青森の常念寺から珍しい名作の仏像とい... ...続きを見る

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2008/07/31 11:11
盛岡伝説案内 其の四拾参  銭掛の松 ぜにかけのまつ
盛岡伝説案内 其の四拾参  銭掛の松 ぜにかけのまつ  ある年の秋の雨降る夕暮れのこと、徳玄寺の和尚は、読書の合間に縁側に出て時雨の風情を愛でていると、笠も被らない一人の汚い姿の老僧が山門を入ってきました。和尚の側に来ると菰に包んだものを取り出して「胴体の無い首ばかりの如来様でございますが、どうぞ買っておいてください」といいます。「いったいいくらで売るつもりかね」と問うと「三貫文」と答え、あまり安くないものの、名工の作と見えて鑿のあとも床しく、この雨降りにわざわざ来たのも何かの縁と思い、三貫文を渡して買い取りました。  翌日は雨があがり、... ...続きを見る

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2008/06/26 15:00
盛岡伝説案内 其の四拾弐  葛西氏と墓所の桜
盛岡伝説案内 其の四拾弐  葛西氏と墓所の桜  東北と葛西氏の縁は平泉に始まります。源頼朝は奥州征伐として奥州藤原氏を滅亡に追い込むと頼朝の家人・葛西清重(葛西氏初代)を奥州総奉行としました。清重は平泉ではなく、石巻に城を築いて本拠としますが、鎌倉で幕府重臣として活躍し、鎌倉と石巻を往来していたようです。その後、豊臣秀吉が進める天下統一において小田原征伐の際、全国諸大名に参戦が命じられますが、この時参陣しなかった葛西・和賀・稗貫の諸氏は奥州仕置として領地を没収されることになりました。葛西氏は十七代晴信の慶長二年(一五九七)死去により... ...続きを見る

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2008/05/31 14:37
盛岡伝説案内 其の四拾壱 縁結びの銀座の柳
盛岡伝説案内 其の四拾壱 縁結びの銀座の柳  この度、本誌『街もりおか』の編集長が交代されたことを機に、数号先には一新して紙面も充実されるようだ。この『街もりおか』の体裁は、東京・銀座で発行されている『銀座百点』に習ったものだというが、盛岡と銀座の縁があるものといえば、他でもなく石川啄木で通じる「銀座の柳」が盛岡にはある。  この銀座の柳のいわれに魅力的な逸話があるので記しておく。  銀座通りの並木に柳が植えられたのは明治十年頃であったというが、大正十二年の関東大震災で焼失。昭和初期に復興するも東京大空襲で失われた。戦後の復興... ...続きを見る

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2008/04/24 10:18
盛岡伝説案内 其之四拾 首塚と生目観音
盛岡伝説案内 其之四拾 首塚と生目観音  盛岡城大奥の奥女中「蓮子(れんこ)」の父は、川原町の材木商「岩井与一郎」の娘であった。ある時、与一郎のキリスト教信仰が発覚して、小鷹刑場で斬首されるとさらし首になった。これを知った蓮子は悲しみに堪えず、夜中に城を抜け出して刑場に至ると、父の首を盗み抱えて門戸が微かに開いていた菩提寺の円光寺を訪ねた。  父の首を差し出して供養と埋葬を願う蓮子の姿に驚く一方、その志に嘆賞した時の住職八世良観和尚は、その願いに承諾すると人の耳目に触れることを恐れて鐘も鳴らさず、微かに読経して与一郎の首を埋... ...続きを見る

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2008/04/09 11:32
荷札販売公徳箱
荷札販売公徳箱 この写真は川口荷札株式会社が大正時代に東北の鉄道駅をメインに338箇所に設置した「荷札販売公徳箱」です。 そして下の写真は、その看板。 この看板が平成8年に骨董屋さんに流出して、北海道の方の手に渡り、今回、盛岡市内材木町で木製看板の展示会に並んでいるそうです。 ...続きを見る

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2008/03/03 12:03
盛岡伝説案内 其の参拾九 東洋一の川口荷札
盛岡伝説案内 其の参拾九 東洋一の川口荷札  宮澤賢治が石灰肥料の荷札を川口荷札株式会社に発注した話は既に紹介済みであるが、肝腎の創業の話について、もう少し書いておく。  明治三十七年(一九〇四)、盛岡市八日町に創業した「川口屋荷札店」。歳弘松人(としひろまつんど 写真右)、ももよ(写真左)夫妻が開業した。歳弘は山口県出身、細君は宮城県出身である。夫人の出身地の地名を屋号として「川口屋」を名乗った。歳弘は、山口県の熊毛郡塩田村出身で、隣の束荷村からは伊藤博文が出身している(現在は、どちらの村も光市)。伊藤博文は、全国に鉄道普及を進め... ...続きを見る

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2008/02/26 14:55
盛岡伝説案内 其之参拾八 南部煎餅と長慶天皇
盛岡伝説案内 其之参拾八 南部煎餅と長慶天皇  このところ小麦の高騰が騒がれて少なからずも、盛岡名産の麺類であったり、小麦粉で作る煎餅こと「南部せんべい」にも影響があるのではないかと懸念される。私は小さい時から何の不思議も感じずに南部せんべいを口にしてきたが、よく見ると煎餅の表裏にある文様に興味がそそられた。  建徳年間、陸奥の国にお忍びで来られた長慶天皇(在位一三七〇〜一三八三)が青森県南部町の長谷寺に還幸された折、食べ物が無く困っていたところ、家臣の赤松助左右衛門が付近の農家から蕎麦粉と胡麻を貰い受け、蕎麦粉を練って胡麻をふり... ...続きを見る

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2008/01/31 16:17
盛岡伝説案内 其の参拾七  規伯玄方と黄精飴
盛岡伝説案内 其の参拾七  規伯玄方と黄精飴  規伯玄方こと方長老は、寛永十二年(一六三五)三月、朝鮮国交国書改ざんの罪を負い、四十八歳の時に南部藩お預けの身となりました。「玄方」の「玄」はその師匠「玄蘇大和尚・げんそだいおしょう」から頂いた名前で、これを罪人となって汚してしまうのが惜しいと、盛岡では「無方」と呼ぶようにと言われたそうです。  この時の南部藩主は重直公でした。重直公が病の床に就くと、方長老は「アマドコロ」という草の根で薬を作り、牛のいる農家を訪ねては乳を搾ってもらい、牛乳を持ってお見舞いに出かけます。殿に面会すると... ...続きを見る

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2007/12/28 10:22
盛岡伝説案内 其の参拾六  歳末の来々軒
 宮澤賢治の作品に『来々軒』という詩がある。 浙江(せっこう)の林光文(りんこうぶん)は、かゞやかにまなこ瞠(みひら)き、/そが弟子の足をゆびさし、凜としてみじろぎもせず。//ちゞれ雲西に傷みて、いささかの粉雪ふりしき、/警察のスレートも暮れ、売り出しの旗もわびしき。//むくつけき犬の入り来て、ふつふつと釜はたぎれど、/額(ぬか)青き林光文は、そばだちてまじろぎもせず。//もろともに凍れるごとく、もろともに刻めるごとく、/雪しろきまちにしたがひ、たそがれの雲にさからふ。  「粉雪」「... ...続きを見る

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2007/12/02 14:11
盛岡伝説案内 其の参拾五  盛岡に漂う苹果の香り
 今秋、岩手オリジナル品種の「黄香(おうか)」というリンゴがはじめて一般の目に触れ始めた。大きく香り豊かでジューシーなリンゴだ。  今ではリンゴといえば青森県なのだが、岩手ではじめてリンゴが植栽された地は盛岡なのである。もともと在来種のリンゴはあったようで、これは「盆リンゴ」と呼ばれて小さく甘酸っぱいもの。漢字で書くと「林檎(りんきん)」であった。これに対して西洋リンゴは漢字で「苹果(へいか)」と書いて大きな美味しい実であった。  明治五年(一八七二)に古沢林(ふるさわはやし)は、横... ...続きを見る

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2007/11/05 10:34
盛岡伝説案内 其の参拾四 巌鷲山自光坊
巌鷲山自光坊 がんじゅさんじこうぼう ...続きを見る

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2007/10/01 12:22
盛岡伝説案内 其の参拾参 安倍氏終焉と松の木
 北上川の北大橋の上流左岸に「手掛の松緑地」がある。しかし、「手掛の松」といったところで、今日、このあたりに松の木は見あたらない。ここが緑地に整備されたときにでも植えたであろう盛岡市の木・シダレカツラが今は大きく育っていて、北上川の流れは、川底の岩肌を激しく洗う音だけを響かせている。  ここには、約九百五十年前の出来事が伝説として伝えられている。前九年の役の最中、安倍貞任軍の「厨川柵(この場合は安倍館とみられる)」の北上川対岸に陣をおいた源義家が、ここから柵を見上げて手を掛けた松が「手... ...続きを見る

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2007/09/02 12:56
盛岡伝説案内 其の参拾弐  川施餓鬼と花魁供養
 享保年間(一七一六〜三五)のこと、南部三十代行信公の七女塩子姫(しおこひめ)≠ヘ、黄檗宗大慈寺四代目の万叡(まんえい)和尚を大変尊敬しており、ある時、姫が「施餓鬼(せがき)」を行いたいと言いだしたので、万叡和尚は仙北町の新山川原で法要を営みました。施餓鬼とは、死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀式です。新山川原というのは、現在の明治橋と南大橋の中間あたりですが、この法要は安永(一七七二〜八〇)・天明(一七八一〜一八〇〇)と続けられました。  文化十... ...続きを見る

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2007/08/10 11:28
盛岡伝説案内 其の参拾壱  川から拾われた仏様
 正直者の農夫がある日、千日河原(北上川の明治橋下流付近)に朝、草刈りに出たとき、草むらの中に光明を発するものを見つけた。不思議に思って、おそるおそる近寄ってみると、七寸(二十一センチ)ばかりの仏像であったという。思わずひざまずいて押し頂き、家に持ち帰った農夫は箱の中に安置して、家族ともども朝夕拝んでいた。それからというもの、家内に病人なく、生活は豊かになり、幸せな暮らしになっていったという。これを聞いた近郊近在の人々が、あちらこちらからお参りに来るようになり、以来、お参りに来る者は増え... ...続きを見る

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2007/06/30 10:50
盛岡伝説案内 其の参拾  経典に化けた蛸
 慈覚大師一刀三礼御作と伝わる『蛸薬師如来』という仏像が、「おかんの墓」や「お菊の皿」で有名な大泉寺にあります。  昔、京都二条室町に住む林秀という入道が毎月比叡山の薬師如来に参詣していましたが、年をとって登山がおぼつかなくなると、ある夜如来のお告げをいただきました。むかし伝教大師がわが身を像にうつして黒谷の東に埋めたという、汝これを得て護持せよというお告げでした。林秀は、夜が明けるのを待って霊告の場所を訪ねると草むらの中に尊像があったので、速やかに像を都に迎えて仏殿を建てて永福寺と号して... ...続きを見る

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2007/06/04 11:28
盛岡伝説案内 其之弐拾九 新山舟橋の鎖
 盛岡城跡公園の石段各所の手すりに中央部がくびれた、いわば瓢箪型の鎖がついている。  この鎖は、戦時下の金属回収も免れてきたものだ。公園菜園側の坂道にもあったといわれるが、これは昭和十九年(一九四四)の夏に撤去されて無くなったのだという。そんなこの鎖、じつは奥州街道の要、北上川に架かる新山舟橋の舟を繋いでいた鎖だという説がある。この舟橋について、その鎖を繋いでいた柱の根元部分も北上川の中から発見されて、現在は明治橋際の御蔵こと「下町資料館」の中に展示保存されている。  この舟橋がどの... ...続きを見る

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2007/05/01 13:59
盛岡伝説案内 其の弐拾八 大通・菜園地区のめでたい地名は幻
 このたびシネ街ック再発見事業実行委員会は、映画館通りと交差する二本の通りに愛称をつけ、大通り地区の旧い通り名が復活の運びとなった。その二本とは、「高砂町通」「亀楽(きらく)町通」で、「高砂町通」は、盛岡名画劇場が入居する大通二丁目の盛岡サンライズタウンと中央映画劇場2・3が入居する大通一丁目の第8大通ビルに面する通り。「亀楽町通」は、大通2丁目の盛岡フォーラムが入居する商業ビル・MOSSビルにつながる通りである。  その昔、盛岡城の菜園として田園風景が見られた場所にも昭和初期に開発の... ...続きを見る

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2007/04/01 22:10
盛岡伝説案内 其の弐拾七 川を渡らなかった石仏
 盛岡藩では元禄、宝暦、天明、天保の四大飢饉で多くの餓死者が出たため、祗陀寺十四世天然和尚が死者の供養として十六羅漢の建立を発願。 五万八千五十三人からの浄財と労力の奉仕によって、一八三七(天保八)年十月に着し、一八四九(嘉永二)年に完成した。これが現・茶畑のらかん公園にある十六羅漢である。像本体のみでも最大2メートル程の高さがある二十一体の石仏群だ。  石は志波城古代公園の南にある飯岡山産。藩御用職人の石工七人が三年かかって粗刻みし、巨岩を船積みして北上川を渡すと現・らかん公園の地に... ...続きを見る

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2007/03/19 22:40
盛岡伝説案内 其の弐拾六 明治天皇御巡幸の名残
 明治天皇東北御巡行で、明治九年と十四年の二回とも、盛岡でお泊まりになった屋敷が菊池金吾邸でした。ここは、肴町の南大通側の裏手に位置していて、現在盛岡市立杜陵老人福祉センターが建っています。この建物の裏には江戸時代の武家屋敷から由緒のある日本庭園があり、池泉回遊式庭園として、盛岡市の保護庭園に指定されています。  肴町の通りから、センターに向かう道は、明治天皇の最初の御巡行の時に菊池金吾が新設したもので、『御幸新道(みゆきしんどう)』と呼ばれて、みかわや・みゆき館の横に碑が建っています... ...続きを見る

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2007/01/30 21:30
盛岡伝説案内 其の弐拾五 石灯籠のある橋
 夕顔瀬橋は一六五六年、北上川に初めて架けられた橋という歴史がある。この『夕顔瀬(ゆうがおせ)』という名前に魅力を感じる人も少なくない。これは前九年の戦いに由来し、安倍貞任(あべのさだとう)軍が瓜の夕顔に顔を書くと甲冑を着せて川原に並べ、敵を欺こうとしたものの、一族は滅亡。夕顔は北上川に虚しく漂った。その様子が『夕顔瀬』の発祥とされている。現在の橋は一九九二年(平成四年)に架橋されたもの。上流側の歩道中央部にレプリカの石灯籠が一対置かれていて、これには次のような伝説がある。  慶応年間... ...続きを見る

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2007/01/02 06:05
盛岡伝説案内 其の弐拾四 盛岡藩士の灯り
 照明として「ガス灯器具」を最初に製作したのは、スコットランドのウィリアム・ムルドックという人物で、一七九七年にイギリス・マンチェスターでガス灯を設置しています。このように「ガス灯」というと外国から輸入されたものというイメージが強いのですが、日本で初めてガスに火を点けて灯りにしたのは、盛岡出身の人物でした。  日本の都市ガス事業の始まりは、明治五年(一八七二)、横浜の外人居留地にガス灯をともしたのが始まりですが、この十七年前、南部藩士の手で発明されました。安政二年(一八五五)、島立甫(... ...続きを見る

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2006/12/03 22:10
盛岡伝説案内 其の弐拾参  とっこべ虎子
 その昔、葺手町と紺屋町の間には「斗米山・とっこべやま」があり、花崗岩の大きな石が露出した地帯であったという。この地は、慶長年間(一五九五〜一六一四)の古絵図には「とっこべ石」、正保年間(一六四四〜一六四七)の城下地図には「とっこべ森」などと記されている。ここからは石材を剪りだした記録もあり、盛岡八幡宮一の鳥居の石材を剪りだしたことが『盛岡砂子』に記されている。そのようなことから、この地の地鎮として祀ったのが「斗米稲荷社」で、現在は斗米山(とまいさん)長福院の境内に建つ。  「斗米虎子... ...続きを見る

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2006/11/04 01:24
盛岡伝説案内 其の弐拾弐 荷札を発注した宮澤賢治
 今から一〇二年前のこと明治三十七年一〇月、盛岡市八日町(現・本町通三丁目)に「川口屋荷札店」が創業した。創業者は山口県出身の歳弘松人(としひろまつんど)と宮城県出身のもゝよ夫妻である。大正初期には「川口荷札株式会社」となり、全国シェア七割を占める膨大な生産量とともに、満州産の木炭俵にも販路があったため「東洋一の川口荷札」というコピーを冠する時代があった。  さて、当地の偉人の一人、宮澤賢治の資料の中で昭和六年四月四日に石灰肥料の荷札を「川口荷札株式会社」に依頼したという記述がある。ま... ...続きを見る

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2006/10/01 07:19
盛岡伝説案内 其の弐拾壱  団子坂
 盛岡で団子といえば「醤油団子」。生醤油仕立てのしょっぱい団子は全国でも岩手内陸界隈だけのもの。餅菓子類をこのへんでは「弁財物(べんじぇもの)」と呼んで、「こびる(小昼)」にかかせない一品です。  さて、そんな「しとねもの」に関する伝説も盛岡にはありました。  その昔、みちのくを巡幸していた弘法大師(空海)さまが、茶店にたどりつくと団子を頼みました。 ところが、茶店の婆さんは、大師のみすぼらしい乞食のような姿をみて、「これは団子でない」と言って団子を隠してしまいました。 弘法大師さま... ...続きを見る

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2006/09/04 23:27
「お菊の皿」検証
これも以前盛岡伝説案内でご紹介した「お菊の皿」であるが、毎年このお盆の8月16日しか公開されないことから、ぜひその「皿」の形が確かめたくて見てきた。 盛岡市名須川町「大泉寺」には緑と黄色の色鮮やかな「皿」というよりは「丼」4枚が伝えられている。(詳しくは「盛岡伝説案内」を参照ください。) ...続きを見る

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2006/08/16 16:44
マルコポーロに逢う
お盆というこの時期に報恩寺の五百羅漢に逢いに行きました。 お盆だからといって特別なことはなく、拝観料300円です。 先に盛岡伝説案内でご紹介した頃に整備途中だった耐震目的のセルロイドも小綺麗になっていました。(その頃はとても見られた状態ではなかったので、なんでこんなことしたのだろうと思った。)しかしながら、羅漢堂の宝珠は黄色く塗られ、ていました。瓦は葺きかえられていた。 さて、肝心のマルコポーロ像なのですが、左手首が取れてから、かれこれ数年になります。 その右隣のフビライ像も左手... ...続きを見る

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2006/08/16 16:38
盛岡伝説案内 其の弐拾  蓮被りの黒佛
 盛岡の名須川町の寺院群に本誓寺という寺がある。ここには親鸞聖人自身が造ったという通称「黒佛・くろぼとけ」と呼ばれる像がある。これは盛岡市の有形文化財で、本山東本願寺にも登録されている親鸞御真影の一体として古くから諸国に知られた宝物というが、そのお姿が珍しい。  まずは、その名の通り真っ黒な御像であるため「黒佛」になったようだ。その真っ黒なお姿のあまり、その様子を伺うことは側に近寄らないと容易でないが、とても写実的なものであることを感じることができる。しかし頭頂部をよく見ると、蓮の葉の... ...続きを見る

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2006/07/28 19:16
盛岡伝説案内 其の拾九 加賀と盛岡「烏帽子」の縁
 盛岡城跡に鎮座する櫻山神社の本殿背後に、御神体といえる巨大な「烏帽子岩」がある。これは盛岡城普請の際に、南部二十七代利直公指示のもと、山を切り崩して出てきた大岩であった。今では、この烏帽子岩のもとで、この岩に似た石を見つけて持つと病・災難から逃れられると伝えられている。  さて、この大岩が「烏帽子」の形に似ていたからこそ、この場にそのまま置かれることになったというが、利直公が「瑞兆・宝石」と喜ぶにはもっと深い理由があったと考えたい。  利直公の「利」の字は、盛岡城築城の許可を豊臣秀... ...続きを見る

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2006/06/29 22:23
盛岡伝説案内 其の拾八 盛岡城戌亥の門の鯱
 盛岡城内の門に取り付けられていたと伝えられる立派な鯱が一対、南大通の久昌寺に残されている。その由来は次のようなものである。  この鯱は昭和八年四月、多くの檀信徒の浄財により久昌寺二十二世海野義雄和尚によって建立された山門に取付けられたもので、かつて盛岡城戌亥の門の由緒あるものと言い伝えられていたが永年風雨にさらされ、破損が著しく見受けられたので平成八年三月庫裡の改築を期に取りはずし調査したところ、言い伝えにたがわず木彫の鯱に、これの保護を意図したごとく銅板にて鯱を型どり覆工されていた... ...続きを見る

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2006/06/13 23:42
盛岡伝説案内 其の拾七 在廳権現 ざいちょうごんげん
 五月二十五日には例年、櫻山神社の祭典が開催されるが、その参道にはこのような伝説が伝えられている。  城の普請とともに城下町を築いた南部利直公が、あるとき重い熱病で床に就いた。これには加持祈祷をはじめ、あらゆる手を尽くしたが一向に回復のきざしが見られず、あらゆる名医も匙を投げた。それで、家臣たちは話し合うと、この病を治してくれる者あらば褒美を取らせようということになった。  出羽国羽黒山の修験者(山伏)在廳が、これを聞き付けて名乗り出た。在廳は何週間かの断食祈祷をして利直公の病を癒すこと... ...続きを見る

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2006/05/01 22:42
盛岡伝説案内 其の拾六 桜の里の「櫻川観音」
 北山寺院郡の龍谷寺の本堂前に「モリオカシダレ」という一本の桜の木がある。この桜は大正九年に三好学博士が発見した新種で国の天然記念物に指定された。石割桜と並んでひとつの街に国指定天然記念物の桜が二件あるのは、全国でもこの盛岡だけで、しかもここは古くから桜の珍奇種の多いところとして学会的に知られていたらしい。「モリオカシダレ」と呼ばれる桜は、同じ寺院郡の法華寺にもあるが、植物学的にはこの木とも龍谷寺のものは若干の違いがあるのだという。さらに本誓寺には「ホンセイジシダレ」という桜があり、これもこ... ...続きを見る

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2006/03/30 22:10
盛岡伝説案内 其の拾伍 赤煉瓦の白い記憶と黒い記憶
 宮澤賢治が『川と銀行木のみどり』と詠んだ「旧盛岡銀行」の建物は、一九一一年(明治四十四年)に竣工。設計は辰野葛西設計事務所が担当しました。全国的に東京駅をはじめとするこのような花崗岩と赤煉瓦のコントラストの名建築は、佐賀県出身の辰野金吾(たつのきんご)と岩手県平泉町出身の葛西萬司(かさいまんじ)が残した遺産ということになります。  現在は国指定重要文化財となっている「岩手銀行中ノ橋支店」ですが、これは盛岡銀行本店として三年の歳月を費やし、煉瓦造鋼板葺三階建、延べ面積千二十平方メートル。煉... ...続きを見る

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2006/02/26 11:11
盛岡伝説案内 其の拾四 飛梅と石馬
 九州福岡市の太宰府天満宮拝殿前にある「飛梅(とびうめ)」とは、菅原道真公が九〇一年(昌泰四年)正月二十五日、太宰府権帥に左遷が決定すると同年二月一日筑紫に下向することになったため、道真公の名残を惜しんだ愛梅の一枝が京都から空を飛び配所に根を下ろしたと伝えられるものである。  実は、盛岡の天満宮にもこの「飛梅」の種が発芽したものだという梅の木がある。  これは、「飛梅」の種を参勤交代で出府していた南部藩士某が親交の筑紫の士から貰い受けてきたものを阿部善吉翁が発芽育成させて神域に植樹し、今... ...続きを見る

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2006/02/02 19:20
盛岡伝説案内 其の拾参 開園一〇〇年・騎馬像の面影
 今年、開園一〇〇周年を迎える『岩手公園』。最近では「盛岡城公園」というような「改名」をすべきかどうかというのが話題になっている。そのとおり、もともとは盛岡城趾であり、啄木時代は荒城と化していたが、賢治時代に『岩手公園』として整備された。この本丸には南部中尉の騎馬姿の銅像があったのだが、戦時下の金属回収により取り払われて現在は台座のみとなっている。  聞いたところ、この銅像の制作費は四万円弱であったという。しかし、銅像自体は一五〇〇円程度で台座に三万五〇〇〇円あまりもの金額がかかったと... ...続きを見る

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2005/12/29 07:53
盛岡伝説案内 その拾弐  四九九分の二体の羅漢像
 五百羅漢像の存在は全国的に珍しく、報恩寺羅漢堂に伝えられるほどの圧巻に遭遇できるのも稀であるようだ。なおかつここは東北・岩手の土地柄から、次のような伝説が生まれた。  五百羅漢の中に「マルコポーロ像」と「フビライ像」がある。マルコポーロは『東方見聞録』の中に「黄金の国ジパング」を残した人物、フビライはジンギスカン(成吉思汗・チンギスハン)の孫であるという。そんな二人が何故、この羅漢の中に並んでいるのだろう。皆、坊主頭の羅漢さんたちの中に頭髪がある二人。まして服装もチャイナ服のようでマルコポー... ...続きを見る

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2005/12/03 22:49
盛岡伝説案内 その拾壱  福岡黒田藩と盛岡の縁
 九州福岡黒田藩といえばその名の通り「黒田武士」で有名であり、さらには「黒田騒動(栗山大膳事件)」もよく知られた話のようだ。  黒田藩二代藩主・忠之は軍縮の世相にありながら逆行する暴政を行う。よって藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴したのが家老の栗山大膳であった。幕府は大膳を尋問すると、藩の取り潰しを逃れるためであったことを陳述したため幕府は感銘する。結果、大膳はこの騒動の責任を負って南部藩預かりの身となったのである。ご当地の福岡では博多山笠の飾り付ける人形に「栗山大膳」があったりするよ... ...続きを見る

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2005/10/30 15:36
盛岡伝説案内 其の拾 盛岡の豆腐消費は江戸に由来
 盛岡が産金で大変裕福な時代があったことは先月のお話でしたが、その裕福さゆえに自由気ままに生きた「暴れん坊」といっても過言ではない殿様の南部二十八代・重直公がいました。  重直公は、江戸参勤の最中に吉原の土手(日本堤か?)で「辻斬り」をしてしまいます。重直公時代は、江戸の南部藩邸の門を開けることができない「逼塞(ひっそく)」という罰を幕府から受けていたこともあるので、江戸での生活に自由がきかない腹癒せにやってしまったのかもしれません。御用役人に追いかけられた重直公は、近くの店に逃げ込みました... ...続きを見る

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2005/10/05 18:23
盛岡伝説案内 其の九 ムカデ退治の鏃(やじり)は何処
 会津藩蒲生家の先祖に藤原秀郷(ふじわらのひでさと)という人物がいる。近江国の琵琶湖畔で三上山を七巻半もする大ムカデを退治したと伝えられている。  瀬田の唐橋の上に横たわる大蛇を恐れもせず踏み越えたことを見込んだ琵琶湖の神様が、ムカデ退治を秀郷に依頼した。弓矢の名手であった秀郷は、鏃を唾液でいっぱいにして(ムカデは水分を嫌うとか、唾液に殺菌力があるからという説がある。)ムカデを退治したのである。  琵琶湖の神様がその褒美として秀郷に与えた有名なものは「釣鐘」と「俵」。釣鐘は三井寺に伝わる「... ...続きを見る

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2005/08/28 19:03
盛岡伝説案内 其の八 盛岡の「お菊の皿」
 怪談話として有名な『番町皿屋敷』は岡本綺堂が大正五年(一九一六)に作った話。参考にしたという享保十七年(一七三二)版の『江戸砂子』には牛込御門内の屋敷に起きた事件が記されているという。  江戸幕府御徒目付の青山主膳の屋敷に仕えていた女中が、あやまって十枚組の一枚の皿を破損し、その罪により殺された。娘の怨念は毎夜、ひとつから九つまで数えては泣き続けた。以後、人々はこの屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになり、これがいつしか「番町皿屋敷」もしくは「播州皿屋敷」になったのだという。  現在では日本全国... ...続きを見る

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2005/07/29 23:27
「盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木」について
「盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木」について シダレカツラの由来の詳細については、以下のとおりとなります。 ...続きを見る

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2005/07/10 21:30
盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木
 昔、大ヶ生(おおがゆう)・龍源寺の住職に遠野の寺まで行ってくる用ができた。その道中、現・盛岡市内の山中、砂子沢(いさござわ)のあたりで、一本の珍奇な幼木を発見した。そこで、現・大迫町の岳の妙泉寺(みょうせんじ・現、早池峯神社境内)に立ち寄って、庭先にこの幼木を仮植えさせてもらい、遠野の用を済ませると、この木を持って龍源寺に戻った。さっそく住職は本堂裏にこの苗木を植えて成長を見守った。  年月を経ると、この幼木は巨大な姿となった。一方、寺の建物も傷んできて改修ょ余儀なくされた。その際、この木... ...続きを見る

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2005/07/09 18:59
盛岡伝説案内 其の六 江戸のおもかげ
 去る二〇〇一年の五月に、北山の南部家菩提所「聖寿禅寺」の本堂入口に祀られていた南部家ゆかりのお地蔵さんが、市内中心部の桜山神社に移された。  「おもかげ地蔵尊」と呼ばれるこのお地蔵さんの由来は、七千人以上もの犠牲者を出した安政の江戸大地震の際、盛岡藩江戸屋敷では、建物が全壊したにもかかわらず、お地蔵さんり守護により死者・けが人も少なく、特に子ども達を守ったとされている。  南部藩江戸屋敷といえば、現在の東京都港区麻布の有栖川宮記念公園がその敷地の跡と伝えられていて、付近は大使館やインター... ...続きを見る

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2005/07/06 20:57
盛岡伝説案内 其の五 盛岡の京都
 市の中央を中津川が流れていて「上の橋」「中の橋」「下の橋」の三橋がある。上下二橋の欄干には珍しい擬宝珠が附いているが、上の橋のは慶長十四年、下の橋のは慶長十六年と刻んであるが数個混在していて、中之橋と刻まれたものもある。この擬宝珠の由来はなかなか興味深い。  南部十二代政行公の京都在番中の或る年の春、時ならぬ鹿の鳴き声が帝の耳にも届き、「奇怪の事である、洛の内外に触れて歌伏せにせよ」との命が下り、「春鹿」の御題が出された。その時の政行公の詠歌は、  「春霞 秋たつ霧にまがわねば 思い忘れ... ...続きを見る

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2005/07/04 21:19
盛岡伝説案内 其の四 桜雲石
 内丸の盛岡地方裁判所の前に国指定天然記念物の『盛岡石割桜』がある。戦前の観光案内には、『一株の櫻樹巨岩の中央を劈きて生じ他に見られない奇観である』と記されている。掲載した写真は平成五年頃に撮影したものと記憶しているが、現在より枝も多くて外科手術前最盛期の姿である。エドヒガンザクラともいわれる種であるというが、一般的なソメイヨシノに比べて大変花が小さいのが印象的な桜である。明治天皇東北御巡幸の折りにご覧に入れた際の「桜雲石(おううんせき)」という別名を持つが、その頃、これほどの枝振りは想像でき... ...続きを見る

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2005/07/03 19:52
盛岡伝説案内 其の参 虎屋敷に梅の花咲く頃
 盛岡の街中で目に見える残雪が少なくなると、「マンサク」や「サンシュユ」の黄色い花が、いよいよ春の到来を伝え、「梅」「桜」とほころび始めるのも、間近となる。例年、花見の賑わいを見せる盛岡城址の「梅林」のあたりに「虎屋敷」と呼ばれた所がある。  その昔、大阪夏の陣に出陣した南部利直公は、帰りに駿府(静岡県)に立ち寄ると徳川家康公に労をねぎらわれて、カンボジアから献上された虎二頭を賜った。その虎は「乱菊丸」「牡丹丸」と名付けられた雌雄であった。  ある時、「乱菊丸」は檻を抜け出したという。中津川... ...続きを見る

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2005/07/03 06:45
盛岡伝説案内 其の弐 消えた手形
 二月・如月を迎えると暦のうえでも春を迎える。しかしながら、盛岡のうららかな春の到来はほど遠い。そんな中、立春を迎える行事「節分」がある。神社や寺院などでのいわゆる「豆まき」は盛んであるが、昨今の一般家庭で「節分行事」は続けられているだろうかとも思うところ、近年では、その年の恵方に向かって太巻き寿しを食すということが行われる様になってきた。  さて、「節分」といって登場するのは「鬼」であるが、盛岡の三ツ割辺りにも、その昔「羅刹(らせつ)」という鬼が現れて、庶民に悪さを働いたそうである。困り果... ...続きを見る

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2005/07/02 04:13
盛岡伝説案内 其の壱 義経石は何処
 全国的にも義経・弁慶伝説の地は多く、中でも弁慶伝説の石というのは数多く残されているらしい。今年のNHK大河ドラマは「義経」ということもあり、この連載の初回には、関わる伝説を紹介したいと考えた。  衣川から京都の町に帰りたいといって運ばれ、置かれた地の名前は「弁慶石町」という伝説の石もあるが、私が印象深いのは奈良県吉野の吉水神社境内にある「弁慶力釘」という、石に鉄釘が打ち込まれたもの。岩手県内でいうなれば、遠野にある「続石」が有名だ。  こんな義経・弁慶伝説、盛岡にもあるものかと探ったとこ... ...続きを見る

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2005/07/02 03:48

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