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2012/02/18 13:22
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2012/02/03 11:42
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2012/02/03 11:37
今年も11月4日に原敬の命日を迎えますが、原を取り巻いた時間の流れを辿るには、今となっては『原敬日記』に頼る以外の術がありません。 |
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2011/10/30 13:04
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2011/10/30 13:00
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2011/10/30 12:57
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2011/10/30 12:54
日本最初の喫茶店発祥の地というのは、現在の東京都台東区上野1丁目(上野西黒門町)で、湯島駅から東に200メートルほど行った三洋電機東京ビルの北東の隅に、明治21年4月13日「可否茶館」が設立されたという碑が建っている。 |
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2011/10/30 12:52
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2011/10/30 12:48
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2011/10/30 12:44
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| タイトル | 日 時 |
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盛岡伝説案内 其の七拾伍 ハリストス正教会
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2011/10/30 12:40 |
盛岡伝説案内 其の七拾四 ヘレン・ケラー来盛
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2011/03/18 13:38 |
盛岡伝説案内 其の七拾参 三面地蔵尊
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2011/03/18 13:35 |
盛岡伝説案内 其の七拾弐 消え失せそうな安倍足
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2011/03/18 13:29 |
盛岡伝説案内 其の七拾壱 盛岡と山梨の縁
山梨県身延山は、甲斐の国波木井(はきり)郷の地頭南部実長(さねなが)〈貞応元(1222)−永仁5(1297)・南部家初代光行の三男〉の領地でした。実長は日蓮聖人を招き、文永11(1274)年5月17日に入山、6月17日から鷹取山のふもとの草庵を住まいとさせました。日蓮聖人はこれより9年間法華経の読誦(どくじゅ)と門弟の教導で過ごし、弘安4(1281)年11月24日には堂宇を建築して「身延山久遠寺」と名付けられるに至ります。 宮沢賢治も日蓮宗信者でありましたが、賢治の親友であった保坂嘉内(ほ... ...続きを見る |
2011/03/16 17:28 |
盛岡伝説案内 其の七拾 山の上作太夫
南部藩は世に知られた相撲どころで、歴代藩主のなかでも特に行信公や利敬公は相撲好きでした。藩では盛岡八幡宮前、坂の上の南角に相撲場や角屋敷を造り、力士を召し抱えて養成したりもしていました。 延宝年間(1670年代)には、江戸で活躍した大関「山の上作太夫(三太夫・柵太夫とも)」がいました。もとは「山の目作太夫」と呼ばれ、当時の江戸横綱で尾張のお抱え力士「富士山」と取り組み、一度は無念の不覚をとりましたが、甚だ遺恨のことと思い、姫神山に参籠して祈願すると山神が現れて「この子を明朝まで抱きかかえて... ...続きを見る |
2010/12/01 11:13 |
盛岡伝説案内 其の六拾九 御水主衆と鶴
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2010/12/01 10:55 |
盛岡伝説案内 其の六拾八 キリシタンと原敬と大慈寺
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2010/09/06 15:00 |
盛岡伝説案内 其の六拾七 銭神様
むかしむかし、花屋町(現・本町通)になかなか腕の良い金工師が住んでおりましたが、その日暮らしがやっとという有様の貧乏な生活をしておりました。 ある日、金工師が仕事の気休めに庭に出て掃除をしておりますと、突然美しい色のトカゲが庭石の間から現れました。 そのトカゲの走り回る様は、言いようのないほど美しいもので、上手な絵描きでも描き表すことはできないだろうと思われるものでありました。 その様子に見惚れた金工師は、「これは手本なのだ。トカゲの動いている姿を細工してみよう」と、トカゲの姿を模... ...続きを見る |
2010/09/06 14:54 |
盛岡伝説案内 其の六拾六 巌鷲山観世音菩薩
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2010/09/06 14:52 |
盛岡伝説案内 其の六拾伍 幻の茶の香り
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2010/09/06 14:27 |
盛岡伝説案内 其の六拾四 日米合作の開運橋
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2010/05/17 17:31 |
盛岡伝説案内 其の六拾参 伊能忠敬が食した河漏(かろう)
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2010/05/17 17:27 |
盛岡伝説案内 其の六拾弐 盛岡を歩いた伊能忠敬
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2010/02/17 11:07 |
伊能忠敬 −盛岡の宿泊地−
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2010/02/17 10:59 |
盛岡伝説案内 其の六拾壱 虎と道阿弥の茶壺
徳川家康から拝領した「虎」の顛末については以前に掲載したが、「寅年」にあやかって少し触れてみたい。 南部27代利直が大坂の陣(夏か冬かは不明)の帰り道、駿府(静岡県)の家康のもとに立ち寄り、虎2疋を賜った。盛岡城内の籠で飼うが、年を経て1疋が籠を抜け出すと「利直公淡路丸より二ツ玉をもってお打ち留め……」という説と、「(28代)重直公御城隅御二階御物見より二ツ玉をもって鉄砲にて打ち留めたまう……」との説がある。「虎」を拝領して城内の籠で飼っていたことは確かであるが、拝領の経緯や撃ち殺したのは... ...続きを見る |
2010/01/20 15:35 |
盛岡伝説案内 其の六拾 比叡山のシダレカツラ
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2009/12/04 12:14 |
盛岡伝説案内 其の五拾九 食用菊の阿房宮
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2009/12/04 12:10 |
盛岡伝説案内 其の五拾八 聖寿寺の五重塔
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2009/11/03 12:51 |
盛岡伝説案内 其の伍拾七 盛岡八幡宮 流鏑馬神事
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2009/09/23 10:17 |
盛岡伝説案内 其の五拾五 秋葉神社 三尺坊大権現
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2009/08/28 16:29 |
盛岡伝説案内 其の五拾四 チャグチャグ馬コ発祥の地 芋田 駒形神社
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2009/06/22 11:47 |
盛岡伝説案内 其の五拾参 霊異の竹
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2009/05/23 17:07 |
盛岡伝説案内 其の五拾弐 長福院の仁王像
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2009/04/22 10:52 |
盛岡伝説案内 其の五拾壱 南部十左衛門信景(北十左衛門)
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2009/02/27 18:37 |
盛岡伝説案内 其の五拾 金山踊からめ節
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2009/02/09 10:39 |
盛岡伝説案内 其の四拾九 塩の道 撫牛さん
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2009/01/10 10:17 |
盛岡伝説案内 其の四拾八 南部の私大
旧暦は明治5(1871)年12月2日で廃止されて、12月3日が新暦(太陽暦)の元日、明治6(1872)年1月1日となりました。 旧暦で一カ月とは、大の月で30日、小の月が29日でありました。現在のように31日という日はなく、年によっては12月でも29日が大晦日の年もありました。 建久2(1191)年、南部藩祖光行公が新領地糠部に赴任するため73人の御供をつれて甲州を出発、鎌倉の由比ヶ浜から6艘の船に分乗して暮の28日に八戸に着き、相内観音堂で年を越しますが、この12月はあいにく小の月で... ...続きを見る |
2008/12/04 10:14 |
盛岡伝説案内 其の四拾七 酒買地蔵尊異譚
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2008/10/30 11:14 |
盛岡伝説案内 其の四拾六 四ツ家の地蔵さん
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2008/10/05 14:14 |
盛岡伝説案内 其の四拾五 豆腐買地蔵尊異譚
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2008/09/03 12:58 |
盛岡伝説案内 其の四拾四 歯生の弥陀・はおいのみだ
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2008/07/31 11:11 |
盛岡伝説案内 其の四拾参 銭掛の松 ぜにかけのまつ
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2008/06/26 15:00 |
盛岡伝説案内 其の四拾弐 葛西氏と墓所の桜
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2008/05/31 14:37 |
盛岡伝説案内 其の四拾壱 縁結びの銀座の柳
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2008/04/24 10:18 |
盛岡伝説案内 其之四拾 首塚と生目観音
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2008/04/09 11:32 |
荷札販売公徳箱
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2008/03/03 12:03 |
盛岡伝説案内 其の参拾九 東洋一の川口荷札
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2008/02/26 14:55 |
盛岡伝説案内 其之参拾八 南部煎餅と長慶天皇
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2008/01/31 16:17 |
盛岡伝説案内 其の参拾七 規伯玄方と黄精飴
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2007/12/28 10:22 |
盛岡伝説案内 其の参拾六 歳末の来々軒
宮澤賢治の作品に『来々軒』という詩がある。 浙江(せっこう)の林光文(りんこうぶん)は、かゞやかにまなこ瞠(みひら)き、/そが弟子の足をゆびさし、凜としてみじろぎもせず。//ちゞれ雲西に傷みて、いささかの粉雪ふりしき、/警察のスレートも暮れ、売り出しの旗もわびしき。//むくつけき犬の入り来て、ふつふつと釜はたぎれど、/額(ぬか)青き林光文は、そばだちてまじろぎもせず。//もろともに凍れるごとく、もろともに刻めるごとく、/雪しろきまちにしたがひ、たそがれの雲にさからふ。 「粉雪」「... ...続きを見る |
2007/12/02 14:11 |
盛岡伝説案内 其の参拾五 盛岡に漂う苹果の香り
今秋、岩手オリジナル品種の「黄香(おうか)」というリンゴがはじめて一般の目に触れ始めた。大きく香り豊かでジューシーなリンゴだ。 今ではリンゴといえば青森県なのだが、岩手ではじめてリンゴが植栽された地は盛岡なのである。もともと在来種のリンゴはあったようで、これは「盆リンゴ」と呼ばれて小さく甘酸っぱいもの。漢字で書くと「林檎(りんきん)」であった。これに対して西洋リンゴは漢字で「苹果(へいか)」と書いて大きな美味しい実であった。 明治五年(一八七二)に古沢林(ふるさわはやし)は、横... ...続きを見る |
2007/11/05 10:34 |
盛岡伝説案内 其の参拾四 巌鷲山自光坊
巌鷲山自光坊 がんじゅさんじこうぼう ...続きを見る |
2007/10/01 12:22 |
盛岡伝説案内 其の参拾参 安倍氏終焉と松の木
北上川の北大橋の上流左岸に「手掛の松緑地」がある。しかし、「手掛の松」といったところで、今日、このあたりに松の木は見あたらない。ここが緑地に整備されたときにでも植えたであろう盛岡市の木・シダレカツラが今は大きく育っていて、北上川の流れは、川底の岩肌を激しく洗う音だけを響かせている。 ここには、約九百五十年前の出来事が伝説として伝えられている。前九年の役の最中、安倍貞任軍の「厨川柵(この場合は安倍館とみられる)」の北上川対岸に陣をおいた源義家が、ここから柵を見上げて手を掛けた松が「手... ...続きを見る |
2007/09/02 12:56 |
盛岡伝説案内 其の参拾弐 川施餓鬼と花魁供養
享保年間(一七一六〜三五)のこと、南部三十代行信公の七女塩子姫(しおこひめ)≠ヘ、黄檗宗大慈寺四代目の万叡(まんえい)和尚を大変尊敬しており、ある時、姫が「施餓鬼(せがき)」を行いたいと言いだしたので、万叡和尚は仙北町の新山川原で法要を営みました。施餓鬼とは、死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀式です。新山川原というのは、現在の明治橋と南大橋の中間あたりですが、この法要は安永(一七七二〜八〇)・天明(一七八一〜一八〇〇)と続けられました。 文化十... ...続きを見る |
2007/08/10 11:28 |
盛岡伝説案内 其の参拾壱 川から拾われた仏様
正直者の農夫がある日、千日河原(北上川の明治橋下流付近)に朝、草刈りに出たとき、草むらの中に光明を発するものを見つけた。不思議に思って、おそるおそる近寄ってみると、七寸(二十一センチ)ばかりの仏像であったという。思わずひざまずいて押し頂き、家に持ち帰った農夫は箱の中に安置して、家族ともども朝夕拝んでいた。それからというもの、家内に病人なく、生活は豊かになり、幸せな暮らしになっていったという。これを聞いた近郊近在の人々が、あちらこちらからお参りに来るようになり、以来、お参りに来る者は増え... ...続きを見る |
2007/06/30 10:50 |
盛岡伝説案内 其の参拾 経典に化けた蛸
慈覚大師一刀三礼御作と伝わる『蛸薬師如来』という仏像が、「おかんの墓」や「お菊の皿」で有名な大泉寺にあります。 昔、京都二条室町に住む林秀という入道が毎月比叡山の薬師如来に参詣していましたが、年をとって登山がおぼつかなくなると、ある夜如来のお告げをいただきました。むかし伝教大師がわが身を像にうつして黒谷の東に埋めたという、汝これを得て護持せよというお告げでした。林秀は、夜が明けるのを待って霊告の場所を訪ねると草むらの中に尊像があったので、速やかに像を都に迎えて仏殿を建てて永福寺と号して... ...続きを見る |
2007/06/04 11:28 |
盛岡伝説案内 其之弐拾九 新山舟橋の鎖
盛岡城跡公園の石段各所の手すりに中央部がくびれた、いわば瓢箪型の鎖がついている。 この鎖は、戦時下の金属回収も免れてきたものだ。公園菜園側の坂道にもあったといわれるが、これは昭和十九年(一九四四)の夏に撤去されて無くなったのだという。そんなこの鎖、じつは奥州街道の要、北上川に架かる新山舟橋の舟を繋いでいた鎖だという説がある。この舟橋について、その鎖を繋いでいた柱の根元部分も北上川の中から発見されて、現在は明治橋際の御蔵こと「下町資料館」の中に展示保存されている。 この舟橋がどの... ...続きを見る |
2007/05/01 13:59 |
盛岡伝説案内 其の弐拾八 大通・菜園地区のめでたい地名は幻
このたびシネ街ック再発見事業実行委員会は、映画館通りと交差する二本の通りに愛称をつけ、大通り地区の旧い通り名が復活の運びとなった。その二本とは、「高砂町通」「亀楽(きらく)町通」で、「高砂町通」は、盛岡名画劇場が入居する大通二丁目の盛岡サンライズタウンと中央映画劇場2・3が入居する大通一丁目の第8大通ビルに面する通り。「亀楽町通」は、大通2丁目の盛岡フォーラムが入居する商業ビル・MOSSビルにつながる通りである。 その昔、盛岡城の菜園として田園風景が見られた場所にも昭和初期に開発の... ...続きを見る |
2007/04/01 22:10 |
盛岡伝説案内 其の弐拾七 川を渡らなかった石仏
盛岡藩では元禄、宝暦、天明、天保の四大飢饉で多くの餓死者が出たため、祗陀寺十四世天然和尚が死者の供養として十六羅漢の建立を発願。 五万八千五十三人からの浄財と労力の奉仕によって、一八三七(天保八)年十月に着し、一八四九(嘉永二)年に完成した。これが現・茶畑のらかん公園にある十六羅漢である。像本体のみでも最大2メートル程の高さがある二十一体の石仏群だ。 石は志波城古代公園の南にある飯岡山産。藩御用職人の石工七人が三年かかって粗刻みし、巨岩を船積みして北上川を渡すと現・らかん公園の地に... ...続きを見る |
2007/03/19 22:40 |
盛岡伝説案内 其の弐拾六 明治天皇御巡幸の名残
明治天皇東北御巡行で、明治九年と十四年の二回とも、盛岡でお泊まりになった屋敷が菊池金吾邸でした。ここは、肴町の南大通側の裏手に位置していて、現在盛岡市立杜陵老人福祉センターが建っています。この建物の裏には江戸時代の武家屋敷から由緒のある日本庭園があり、池泉回遊式庭園として、盛岡市の保護庭園に指定されています。 肴町の通りから、センターに向かう道は、明治天皇の最初の御巡行の時に菊池金吾が新設したもので、『御幸新道(みゆきしんどう)』と呼ばれて、みかわや・みゆき館の横に碑が建っています... ...続きを見る |
2007/01/30 21:30 |
盛岡伝説案内 其の弐拾五 石灯籠のある橋
夕顔瀬橋は一六五六年、北上川に初めて架けられた橋という歴史がある。この『夕顔瀬(ゆうがおせ)』という名前に魅力を感じる人も少なくない。これは前九年の戦いに由来し、安倍貞任(あべのさだとう)軍が瓜の夕顔に顔を書くと甲冑を着せて川原に並べ、敵を欺こうとしたものの、一族は滅亡。夕顔は北上川に虚しく漂った。その様子が『夕顔瀬』の発祥とされている。現在の橋は一九九二年(平成四年)に架橋されたもの。上流側の歩道中央部にレプリカの石灯籠が一対置かれていて、これには次のような伝説がある。 慶応年間... ...続きを見る |
2007/01/02 06:05 |
盛岡伝説案内 其の弐拾四 盛岡藩士の灯り
照明として「ガス灯器具」を最初に製作したのは、スコットランドのウィリアム・ムルドックという人物で、一七九七年にイギリス・マンチェスターでガス灯を設置しています。このように「ガス灯」というと外国から輸入されたものというイメージが強いのですが、日本で初めてガスに火を点けて灯りにしたのは、盛岡出身の人物でした。 日本の都市ガス事業の始まりは、明治五年(一八七二)、横浜の外人居留地にガス灯をともしたのが始まりですが、この十七年前、南部藩士の手で発明されました。安政二年(一八五五)、島立甫(... ...続きを見る |
2006/12/03 22:10 |
盛岡伝説案内 其の弐拾参 とっこべ虎子
その昔、葺手町と紺屋町の間には「斗米山・とっこべやま」があり、花崗岩の大きな石が露出した地帯であったという。この地は、慶長年間(一五九五〜一六一四)の古絵図には「とっこべ石」、正保年間(一六四四〜一六四七)の城下地図には「とっこべ森」などと記されている。ここからは石材を剪りだした記録もあり、盛岡八幡宮一の鳥居の石材を剪りだしたことが『盛岡砂子』に記されている。そのようなことから、この地の地鎮として祀ったのが「斗米稲荷社」で、現在は斗米山(とまいさん)長福院の境内に建つ。 「斗米虎子... ...続きを見る |
2006/11/04 01:24 |
盛岡伝説案内 其の弐拾弐 荷札を発注した宮澤賢治
今から一〇二年前のこと明治三十七年一〇月、盛岡市八日町(現・本町通三丁目)に「川口屋荷札店」が創業した。創業者は山口県出身の歳弘松人(としひろまつんど)と宮城県出身のもゝよ夫妻である。大正初期には「川口荷札株式会社」となり、全国シェア七割を占める膨大な生産量とともに、満州産の木炭俵にも販路があったため「東洋一の川口荷札」というコピーを冠する時代があった。 さて、当地の偉人の一人、宮澤賢治の資料の中で昭和六年四月四日に石灰肥料の荷札を「川口荷札株式会社」に依頼したという記述がある。ま... ...続きを見る |
2006/10/01 07:19 |
盛岡伝説案内 其の弐拾壱 団子坂
盛岡で団子といえば「醤油団子」。生醤油仕立てのしょっぱい団子は全国でも岩手内陸界隈だけのもの。餅菓子類をこのへんでは「弁財物(べんじぇもの)」と呼んで、「こびる(小昼)」にかかせない一品です。 さて、そんな「しとねもの」に関する伝説も盛岡にはありました。 その昔、みちのくを巡幸していた弘法大師(空海)さまが、茶店にたどりつくと団子を頼みました。 ところが、茶店の婆さんは、大師のみすぼらしい乞食のような姿をみて、「これは団子でない」と言って団子を隠してしまいました。 弘法大師さま... ...続きを見る |
2006/09/04 23:27 |
「お菊の皿」検証
これも以前盛岡伝説案内でご紹介した「お菊の皿」であるが、毎年このお盆の8月16日しか公開されないことから、ぜひその「皿」の形が確かめたくて見てきた。 盛岡市名須川町「大泉寺」には緑と黄色の色鮮やかな「皿」というよりは「丼」4枚が伝えられている。(詳しくは「盛岡伝説案内」を参照ください。) ...続きを見る |
2006/08/16 16:44 |
マルコポーロに逢う
お盆というこの時期に報恩寺の五百羅漢に逢いに行きました。 お盆だからといって特別なことはなく、拝観料300円です。 先に盛岡伝説案内でご紹介した頃に整備途中だった耐震目的のセルロイドも小綺麗になっていました。(その頃はとても見られた状態ではなかったので、なんでこんなことしたのだろうと思った。)しかしながら、羅漢堂の宝珠は黄色く塗られ、ていました。瓦は葺きかえられていた。 さて、肝心のマルコポーロ像なのですが、左手首が取れてから、かれこれ数年になります。 その右隣のフビライ像も左手... ...続きを見る |
2006/08/16 16:38 |
盛岡伝説案内 其の弐拾 蓮被りの黒佛
盛岡の名須川町の寺院群に本誓寺という寺がある。ここには親鸞聖人自身が造ったという通称「黒佛・くろぼとけ」と呼ばれる像がある。これは盛岡市の有形文化財で、本山東本願寺にも登録されている親鸞御真影の一体として古くから諸国に知られた宝物というが、そのお姿が珍しい。 まずは、その名の通り真っ黒な御像であるため「黒佛」になったようだ。その真っ黒なお姿のあまり、その様子を伺うことは側に近寄らないと容易でないが、とても写実的なものであることを感じることができる。しかし頭頂部をよく見ると、蓮の葉の... ...続きを見る |
2006/07/28 19:16 |
盛岡伝説案内 其の拾九 加賀と盛岡「烏帽子」の縁
盛岡城跡に鎮座する櫻山神社の本殿背後に、御神体といえる巨大な「烏帽子岩」がある。これは盛岡城普請の際に、南部二十七代利直公指示のもと、山を切り崩して出てきた大岩であった。今では、この烏帽子岩のもとで、この岩に似た石を見つけて持つと病・災難から逃れられると伝えられている。 さて、この大岩が「烏帽子」の形に似ていたからこそ、この場にそのまま置かれることになったというが、利直公が「瑞兆・宝石」と喜ぶにはもっと深い理由があったと考えたい。 利直公の「利」の字は、盛岡城築城の許可を豊臣秀... ...続きを見る |
2006/06/29 22:23 |
盛岡伝説案内 其の拾八 盛岡城戌亥の門の鯱
盛岡城内の門に取り付けられていたと伝えられる立派な鯱が一対、南大通の久昌寺に残されている。その由来は次のようなものである。 この鯱は昭和八年四月、多くの檀信徒の浄財により久昌寺二十二世海野義雄和尚によって建立された山門に取付けられたもので、かつて盛岡城戌亥の門の由緒あるものと言い伝えられていたが永年風雨にさらされ、破損が著しく見受けられたので平成八年三月庫裡の改築を期に取りはずし調査したところ、言い伝えにたがわず木彫の鯱に、これの保護を意図したごとく銅板にて鯱を型どり覆工されていた... ...続きを見る |
2006/06/13 23:42 |
盛岡伝説案内 其の拾七 在廳権現 ざいちょうごんげん
五月二十五日には例年、櫻山神社の祭典が開催されるが、その参道にはこのような伝説が伝えられている。 城の普請とともに城下町を築いた南部利直公が、あるとき重い熱病で床に就いた。これには加持祈祷をはじめ、あらゆる手を尽くしたが一向に回復のきざしが見られず、あらゆる名医も匙を投げた。それで、家臣たちは話し合うと、この病を治してくれる者あらば褒美を取らせようということになった。 出羽国羽黒山の修験者(山伏)在廳が、これを聞き付けて名乗り出た。在廳は何週間かの断食祈祷をして利直公の病を癒すこと... ...続きを見る |
2006/05/01 22:42 |
盛岡伝説案内 其の拾六 桜の里の「櫻川観音」
北山寺院郡の龍谷寺の本堂前に「モリオカシダレ」という一本の桜の木がある。この桜は大正九年に三好学博士が発見した新種で国の天然記念物に指定された。石割桜と並んでひとつの街に国指定天然記念物の桜が二件あるのは、全国でもこの盛岡だけで、しかもここは古くから桜の珍奇種の多いところとして学会的に知られていたらしい。「モリオカシダレ」と呼ばれる桜は、同じ寺院郡の法華寺にもあるが、植物学的にはこの木とも龍谷寺のものは若干の違いがあるのだという。さらに本誓寺には「ホンセイジシダレ」という桜があり、これもこ... ...続きを見る |
2006/03/30 22:10 |
盛岡伝説案内 其の拾伍 赤煉瓦の白い記憶と黒い記憶
宮澤賢治が『川と銀行木のみどり』と詠んだ「旧盛岡銀行」の建物は、一九一一年(明治四十四年)に竣工。設計は辰野葛西設計事務所が担当しました。全国的に東京駅をはじめとするこのような花崗岩と赤煉瓦のコントラストの名建築は、佐賀県出身の辰野金吾(たつのきんご)と岩手県平泉町出身の葛西萬司(かさいまんじ)が残した遺産ということになります。 現在は国指定重要文化財となっている「岩手銀行中ノ橋支店」ですが、これは盛岡銀行本店として三年の歳月を費やし、煉瓦造鋼板葺三階建、延べ面積千二十平方メートル。煉... ...続きを見る |
2006/02/26 11:11 |
盛岡伝説案内 其の拾四 飛梅と石馬
九州福岡市の太宰府天満宮拝殿前にある「飛梅(とびうめ)」とは、菅原道真公が九〇一年(昌泰四年)正月二十五日、太宰府権帥に左遷が決定すると同年二月一日筑紫に下向することになったため、道真公の名残を惜しんだ愛梅の一枝が京都から空を飛び配所に根を下ろしたと伝えられるものである。 実は、盛岡の天満宮にもこの「飛梅」の種が発芽したものだという梅の木がある。 これは、「飛梅」の種を参勤交代で出府していた南部藩士某が親交の筑紫の士から貰い受けてきたものを阿部善吉翁が発芽育成させて神域に植樹し、今... ...続きを見る |
2006/02/02 19:20 |
盛岡伝説案内 其の拾参 開園一〇〇年・騎馬像の面影
今年、開園一〇〇周年を迎える『岩手公園』。最近では「盛岡城公園」というような「改名」をすべきかどうかというのが話題になっている。そのとおり、もともとは盛岡城趾であり、啄木時代は荒城と化していたが、賢治時代に『岩手公園』として整備された。この本丸には南部中尉の騎馬姿の銅像があったのだが、戦時下の金属回収により取り払われて現在は台座のみとなっている。 聞いたところ、この銅像の制作費は四万円弱であったという。しかし、銅像自体は一五〇〇円程度で台座に三万五〇〇〇円あまりもの金額がかかったと... ...続きを見る |
2005/12/29 07:53 |
盛岡伝説案内 その拾弐 四九九分の二体の羅漢像
五百羅漢像の存在は全国的に珍しく、報恩寺羅漢堂に伝えられるほどの圧巻に遭遇できるのも稀であるようだ。なおかつここは東北・岩手の土地柄から、次のような伝説が生まれた。 五百羅漢の中に「マルコポーロ像」と「フビライ像」がある。マルコポーロは『東方見聞録』の中に「黄金の国ジパング」を残した人物、フビライはジンギスカン(成吉思汗・チンギスハン)の孫であるという。そんな二人が何故、この羅漢の中に並んでいるのだろう。皆、坊主頭の羅漢さんたちの中に頭髪がある二人。まして服装もチャイナ服のようでマルコポー... ...続きを見る |
2005/12/03 22:49 |
盛岡伝説案内 その拾壱 福岡黒田藩と盛岡の縁
九州福岡黒田藩といえばその名の通り「黒田武士」で有名であり、さらには「黒田騒動(栗山大膳事件)」もよく知られた話のようだ。 黒田藩二代藩主・忠之は軍縮の世相にありながら逆行する暴政を行う。よって藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴したのが家老の栗山大膳であった。幕府は大膳を尋問すると、藩の取り潰しを逃れるためであったことを陳述したため幕府は感銘する。結果、大膳はこの騒動の責任を負って南部藩預かりの身となったのである。ご当地の福岡では博多山笠の飾り付ける人形に「栗山大膳」があったりするよ... ...続きを見る |
2005/10/30 15:36 |
盛岡伝説案内 其の拾 盛岡の豆腐消費は江戸に由来
盛岡が産金で大変裕福な時代があったことは先月のお話でしたが、その裕福さゆえに自由気ままに生きた「暴れん坊」といっても過言ではない殿様の南部二十八代・重直公がいました。 重直公は、江戸参勤の最中に吉原の土手(日本堤か?)で「辻斬り」をしてしまいます。重直公時代は、江戸の南部藩邸の門を開けることができない「逼塞(ひっそく)」という罰を幕府から受けていたこともあるので、江戸での生活に自由がきかない腹癒せにやってしまったのかもしれません。御用役人に追いかけられた重直公は、近くの店に逃げ込みました... ...続きを見る |
2005/10/05 18:23 |
盛岡伝説案内 其の九 ムカデ退治の鏃(やじり)は何処
会津藩蒲生家の先祖に藤原秀郷(ふじわらのひでさと)という人物がいる。近江国の琵琶湖畔で三上山を七巻半もする大ムカデを退治したと伝えられている。 瀬田の唐橋の上に横たわる大蛇を恐れもせず踏み越えたことを見込んだ琵琶湖の神様が、ムカデ退治を秀郷に依頼した。弓矢の名手であった秀郷は、鏃を唾液でいっぱいにして(ムカデは水分を嫌うとか、唾液に殺菌力があるからという説がある。)ムカデを退治したのである。 琵琶湖の神様がその褒美として秀郷に与えた有名なものは「釣鐘」と「俵」。釣鐘は三井寺に伝わる「... ...続きを見る |
2005/08/28 19:03 |
盛岡伝説案内 其の八 盛岡の「お菊の皿」
怪談話として有名な『番町皿屋敷』は岡本綺堂が大正五年(一九一六)に作った話。参考にしたという享保十七年(一七三二)版の『江戸砂子』には牛込御門内の屋敷に起きた事件が記されているという。 江戸幕府御徒目付の青山主膳の屋敷に仕えていた女中が、あやまって十枚組の一枚の皿を破損し、その罪により殺された。娘の怨念は毎夜、ひとつから九つまで数えては泣き続けた。以後、人々はこの屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになり、これがいつしか「番町皿屋敷」もしくは「播州皿屋敷」になったのだという。 現在では日本全国... ...続きを見る |
2005/07/29 23:27 |
「盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木」について
「盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木」について シダレカツラの由来の詳細については、以下のとおりとなります。 ...続きを見る |
2005/07/10 21:30 |
盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木
昔、大ヶ生(おおがゆう)・龍源寺の住職に遠野の寺まで行ってくる用ができた。その道中、現・盛岡市内の山中、砂子沢(いさござわ)のあたりで、一本の珍奇な幼木を発見した。そこで、現・大迫町の岳の妙泉寺(みょうせんじ・現、早池峯神社境内)に立ち寄って、庭先にこの幼木を仮植えさせてもらい、遠野の用を済ませると、この木を持って龍源寺に戻った。さっそく住職は本堂裏にこの苗木を植えて成長を見守った。 年月を経ると、この幼木は巨大な姿となった。一方、寺の建物も傷んできて改修ょ余儀なくされた。その際、この木... ...続きを見る |
2005/07/09 18:59 |
盛岡伝説案内 其の六 江戸のおもかげ
去る二〇〇一年の五月に、北山の南部家菩提所「聖寿禅寺」の本堂入口に祀られていた南部家ゆかりのお地蔵さんが、市内中心部の桜山神社に移された。 「おもかげ地蔵尊」と呼ばれるこのお地蔵さんの由来は、七千人以上もの犠牲者を出した安政の江戸大地震の際、盛岡藩江戸屋敷では、建物が全壊したにもかかわらず、お地蔵さんり守護により死者・けが人も少なく、特に子ども達を守ったとされている。 南部藩江戸屋敷といえば、現在の東京都港区麻布の有栖川宮記念公園がその敷地の跡と伝えられていて、付近は大使館やインター... ...続きを見る |
2005/07/06 20:57 |
盛岡伝説案内 其の五 盛岡の京都
市の中央を中津川が流れていて「上の橋」「中の橋」「下の橋」の三橋がある。上下二橋の欄干には珍しい擬宝珠が附いているが、上の橋のは慶長十四年、下の橋のは慶長十六年と刻んであるが数個混在していて、中之橋と刻まれたものもある。この擬宝珠の由来はなかなか興味深い。 南部十二代政行公の京都在番中の或る年の春、時ならぬ鹿の鳴き声が帝の耳にも届き、「奇怪の事である、洛の内外に触れて歌伏せにせよ」との命が下り、「春鹿」の御題が出された。その時の政行公の詠歌は、 「春霞 秋たつ霧にまがわねば 思い忘れ... ...続きを見る |
2005/07/04 21:19 |
盛岡伝説案内 其の四 桜雲石
内丸の盛岡地方裁判所の前に国指定天然記念物の『盛岡石割桜』がある。戦前の観光案内には、『一株の櫻樹巨岩の中央を劈きて生じ他に見られない奇観である』と記されている。掲載した写真は平成五年頃に撮影したものと記憶しているが、現在より枝も多くて外科手術前最盛期の姿である。エドヒガンザクラともいわれる種であるというが、一般的なソメイヨシノに比べて大変花が小さいのが印象的な桜である。明治天皇東北御巡幸の折りにご覧に入れた際の「桜雲石(おううんせき)」という別名を持つが、その頃、これほどの枝振りは想像でき... ...続きを見る |
2005/07/03 19:52 |
盛岡伝説案内 其の参 虎屋敷に梅の花咲く頃
盛岡の街中で目に見える残雪が少なくなると、「マンサク」や「サンシュユ」の黄色い花が、いよいよ春の到来を伝え、「梅」「桜」とほころび始めるのも、間近となる。例年、花見の賑わいを見せる盛岡城址の「梅林」のあたりに「虎屋敷」と呼ばれた所がある。 その昔、大阪夏の陣に出陣した南部利直公は、帰りに駿府(静岡県)に立ち寄ると徳川家康公に労をねぎらわれて、カンボジアから献上された虎二頭を賜った。その虎は「乱菊丸」「牡丹丸」と名付けられた雌雄であった。 ある時、「乱菊丸」は檻を抜け出したという。中津川... ...続きを見る |
2005/07/03 06:45 |
盛岡伝説案内 其の弐 消えた手形
二月・如月を迎えると暦のうえでも春を迎える。しかしながら、盛岡のうららかな春の到来はほど遠い。そんな中、立春を迎える行事「節分」がある。神社や寺院などでのいわゆる「豆まき」は盛んであるが、昨今の一般家庭で「節分行事」は続けられているだろうかとも思うところ、近年では、その年の恵方に向かって太巻き寿しを食すということが行われる様になってきた。 さて、「節分」といって登場するのは「鬼」であるが、盛岡の三ツ割辺りにも、その昔「羅刹(らせつ)」という鬼が現れて、庶民に悪さを働いたそうである。困り果... ...続きを見る |
2005/07/02 04:13 |
盛岡伝説案内 其の壱 義経石は何処
全国的にも義経・弁慶伝説の地は多く、中でも弁慶伝説の石というのは数多く残されているらしい。今年のNHK大河ドラマは「義経」ということもあり、この連載の初回には、関わる伝説を紹介したいと考えた。 衣川から京都の町に帰りたいといって運ばれ、置かれた地の名前は「弁慶石町」という伝説の石もあるが、私が印象深いのは奈良県吉野の吉水神社境内にある「弁慶力釘」という、石に鉄釘が打ち込まれたもの。岩手県内でいうなれば、遠野にある「続石」が有名だ。 こんな義経・弁慶伝説、盛岡にもあるものかと探ったとこ... ...続きを見る |
2005/07/02 03:48 |
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