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櫻川観世音 −盛岡三十三観音 第21番 龍谷寺−

2005/07/31 16:04
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石川啄木の両親が出逢ったとされる寺・盛岡市名須川町の虎嶽山龍谷寺(曹洞宗)に「櫻川観世音」と呼ばれる観音様が一体ある。
別名「片葉観音」ともいわれる片腕のない観音様です。
その昔、北へ向かう一本筋の道が通っていて、龍谷寺付近に鬱蒼とした木立があり、櫻川が流れていました。あるとき、観音様を携えた旅僧がここで野宿すると、夜に盗賊が襲い、太刀を振り下ろした瞬間閃光が走ると太刀は折れてしまい、賊は逃走しました。朝、僧が観音様を見ると片腕が飛んで川岸に漂い、腕に触れた葦はみな片葉になっていました。
江戸時代の地誌「盛岡砂子」には、龍谷寺の北に片葉の葦が生える池と「着替カ島」と呼ばれる箇所があると記されていて、平安時代に安倍一族を滅ぼした源義家が安倍宗任(あべのむねとう)を連行する途中、京に上っても見苦しくないようにと宗任はここで新しい鎧に着替えたという話があります。
江戸時代、よく知られた龍谷寺の片葉の葦にちなんで櫻川観音の話ができたとも考えられるようですが、世人の願いを一生に一回は聞き届ける観音様として信仰されてきたようです。この観音様は本堂に向かって左奥の厨子の中に納められています。

また、ここは本堂前に「龍谷寺のモリオカシダレ」があり国指定天然記念物指定となっている桜の木があります。盛岡は国の天然記念物「石割桜」もありますので、ひとつの都市で、これだけ近いところに天然記念物の桜が二本もあるのは他に例がないとされています。
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ニコライは南部訛であった

2005/07/31 15:14
北海道・函館のハリストス正教会の隣に南部陣屋があった。当初、宣教師のニコライは日本語を勉強するために、古本屋を一件買い占めたりしている。生きた日本語というのは、この南部陣屋に住む老婆から教わったものとされ、東京神田のニコライ堂に移ってからも、ニコライは南部訛があったと伝えられている。

本日岩手放送・IBCテレビのIBC特集で「北から伝わったキリスト教〜宣教師ニコライとその足跡〜」が放送された。
幕末の日本で、函館を拠点にキリスト教を布教したロシア人宣教師がいた。彼の名はニコライ。ニコライとはどんな人物だったのか。日本で過ごした日々を記したニコライの日記から明治期の岩手の様子と、ニコライが伝え残したキリスト教の布教の足跡をたどる。という番組でした。

函館山に登る坂道は南部陣屋があったところで、「南部坂」と呼ばれている。さらに、ニコライ堂が関東大震災で崩壊すると、その鐘を函館のハリストス正教会に移して現在に伝わるのだということでもある。
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盛岡・大通り街路樹の名残 −いちょう−

2005/07/30 21:39
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現在、盛岡市内大通りの中央に1本のいちょうの木が残されているが、これは大通りが開発された当初に植えられた並木の名残であって、それは、以下の新聞記事から読み取ることができる。

近代都市風景
アスファルト舗装やら街路樹など 南部土地の新計画

市内第一の新開地、旧農校跡大通りの近代都市化については、南部土地会社重役や会社が知恵をしぼって急速なる実現を意気込んでいたが、その第一歩として、今春雪どけを待って大々的な計画実行にとりかかる予定で、現在腹案を練っている。
まず道路面の舗装は、盛岡に初めてのアスファルトをもって大通り全体を改修する。街路には、先進都市にならって銀杏(いちょう)を植栽するとともに、会社直営の近代的な建築にかかる貸家四十軒を、大通り一丁目・二丁目にかけて建てる。このほか、同地の発展案として、毎日社(日影門外小路のつき当たりにあった岩手毎日新聞社のこと。この建物は戦後移転し、現在中央ホールとして使用されている。)裏手側に堂々たる興業物をつらねて、市民の娯楽場としてデビューする予定で、着々その方面の関係者と交渉が進められている。

昭和6年1月8日 岩手日報より
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盛岡伝説案内 其の八 盛岡の「お菊の皿」

2005/07/29 23:27
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 怪談話として有名な『番町皿屋敷』は岡本綺堂が大正五年(一九一六)に作った話。参考にしたという享保十七年(一七三二)版の『江戸砂子』には牛込御門内の屋敷に起きた事件が記されているという。
 江戸幕府御徒目付の青山主膳の屋敷に仕えていた女中が、あやまって十枚組の一枚の皿を破損し、その罪により殺された。娘の怨念は毎夜、ひとつから九つまで数えては泣き続けた。以後、人々はこの屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになり、これがいつしか「番町皿屋敷」もしくは「播州皿屋敷」になったのだという。
 現在では日本全国に皿屋敷伝説が伝えられており、近江彦根の長久寺に残る六枚の皿や姫路城のお菊井戸などがあって、そのひとつが盛岡にもあった。
 青山主膳一家はお菊の亡霊に悩まされ、加持祈祷に至ってもおさまらず、主膳は家事不取締として家禄を失って浪人となる。実は、この浪人となった主膳を南部重直公が江戸で召し抱えたのだという。やがて主膳の二代目が盛岡に移り、増上寺に預けていたいわくの皿を「おかんの墓」で有名な盛岡・油町の大泉寺に奉納したということである。これは年に一度、八月十六日に公開されている。枚数は四枚。
 住職さんは、いかにも本物らしげに説明してくださるが、どうも納得がいかない。それは一目見たその形状が「皿」ではなく「丼」だからである。鮮やかな緑色地に黄色の菊の花紋様が入っていて、釉薬の発色に長い時間の経過を思わせないのだが、深さがあるため「皿」というよりは、やはり「小鉢」「どんぶり」というのがふさわしい形と大きさで、これを見た限りでは、怪談話が出てくる様子は微塵も感じられない。
 私の考察では、重直公の逸話が本当だとすれば、浪人の身を助けて下さった御礼に戴いたもので、直接事件の原因に繋がるものではないと思われますが…。

『街 もりおか 8月号』 より
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盛岡の「銀座の柳」と「銀座の煉瓦」

2005/07/27 20:31
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東京・銀座の柳と京都の関係は既に紹介済みですが、半次郎の住む盛岡にも銀座の柳が植えられています。
一本は写真の「銀座の柳二世」。もりおか啄木賢治青春館(旧第九十銀行本店本館・国重文)の前に植えられています。
もう一本は、石川啄木新婚の家に「銀座の柳三世」があります。

この柳と煉瓦は、平成14年6月5日、東京・銀座の朝日新聞社跡にある啄木歌碑の前で、銀座の商店会から盛岡市長に寄贈された「銀座の柳二世」と「銀座の煉瓦」です。
明治初期から銀座の並木として親しまれた柳は、1968年、街の整備に伴って郊外の河川敷に移植されましたが、その後大半が枯死。銀座金春通り会名誉会長の勝又康雄さんらが「銀座の柳を再び」と、枝を挿し木してビルの屋上で育成し、二世としてよみがえらせたものです。
また、銀座の大煉瓦街は関東大震災で崩壊しましたが、銀座の商店会がこの遺産の一部を大事に保管しているものです。
啄木は、明治42年3月から没する明治45年4月までの約3年間、当時銀座にあった朝日新聞社の校正係として勤務しており、
春の雪 銀座の裏の三階の 煉瓦造りに やはらかに降る
などの歌があります。
みちのく盛岡ふるさと大使として首都圏で活躍する斎藤昭彦さんの仲介で、銀座とも縁が深い啄木ゆかりの地、盛岡に贈られたものです。

「もりおか啄木・賢治青春館 説明板」より

写真は、昨年撮影したものなので、現在はさらに大きくなりましたよ。
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義経 音楽絵巻

2005/07/26 22:23
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大河ドラマ 義経 のオリジナルサウンドトラックとして音楽絵巻というCDが発売されている。
日本史上、疾風の如く現れそして走り去った源九郎義経。彼の存在を色鮮やかな音楽絵巻として綴ろうと手がけたのが、このCDアルバムですとされている。
ジャケットにはドラマのオープニングにも登場する白馬が描かれているが、平泉の毛越寺・浄土庭園にはこの白馬がいると信じて訪れる観光客も少なくないというが、実際には白馬はおりません。
平安時代が広がるドラマの音そのままと感じた半次郎です。
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烏帽子岩(兜岩)のいわれ

2005/07/26 22:14
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盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ二丈ばかり突出した大岩が出てきました。
この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。
「桜山神社社務所説明板」より

この岩の周囲で烏帽子岩によく似た石を見つけてお守りにすると願い事がかなうという言い伝えなどがある。
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義経展はじまる −岩手県立博物館−

2005/07/24 18:56
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7月23日『義経展』の岩手展が岩手県立博物館ではじまった。
前日が報道関係者公開日ということもあり、開館早々での混雑などは全くなかった。
岩手県立博物館は、開館当所に比べ入館者数の減少などから、常設展示内容の魅力もさることながら、最近はその立地条件も問われつつある。
過去の企画展の中で、もっとも入館者数を数えたのが「中尊寺」の文化財を並べた時で、これは、大河ドラマ「炎立つ」の頃であったかと思う。
その点、魅力がいまひとつ感じられないのが「義経展」であろうか。
義経自身の好き嫌いを別としても全国的にその史跡名所がやたらと混雑するほどまでの話は聞こえてこない。景況的にも旅行関連は今ひとつなのかもしれないが、それにしても盛り上がりに欠ける。この原因は何であろうかと考えた。
義経はその生涯、心・自身の置き所無く全国を放浪したようなもので、一箇所に落ち着いて引力を発するに至らないのだと思う。つまりは、史跡すべてにおいて確実な証拠に薄い、もはやすべてが伝説であるに過ぎない部分が何より悲しい。それに付け加え、嘘でも本当でも、弁慶は手形なり、足跡なりその足跡らしいものを各地に残している。
だからといって、義経より弁慶が魅力的かといえば、また難しい問題であるのだが、やはり、生まれた所、亡くなったところに強い印象を置かれることが多く、滞在した箇所のイメージや印象が少ないのは、石川啄木や宮沢賢治についても同じだと思う。
さて、義経展で販売されている図録は、印刷製品としてもなかなか魅力的なもの。
表紙は月のイメージで丸くくり抜かれた部分に義経が舞うホログラムがはめ込まれている。
折り込みで、年譜や義経記が紹介されていて、さらに付録として、児童雑誌の付録を連想させる「平成版立版古」なるものが入っている。これは五条大橋の立体模型といったところか。
各地の史跡をはじめ、その足取りや、北行伝説が北方領土にまで及んでいてなかなか興味深い。
ぜひ、文化地層研究会の「源義経 夢の跡 探求地図」制作でお世話になった大矢先生をはじめとする講演会の機会などにもできれば足を運びたいと思っている。
「義経展」岩手県立博物館での開催は、9月4日まで。
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一里塚に松の木復活 −上田一里塚−

2005/07/23 23:59
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本日、岩手県立博物館で開催されている「義経展」に向かう途中、アネックスカワトク前を通過。
昨年の台風16号で松の木が倒木して撤去されたままになっていた「上田一里塚」に、松の木が植栽されていました。
大きな中央の木の回りに数本の松の木。さらにイベント植栽用の松の木もあって、合計何本植えられたのかわかりませんが、いずれにしても「マツノマダラカミキリ」の「マツクイムシ」などの影響を受けずに大きく育って欲しいと願っています。
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源義経 夢の跡 探求地図

2005/07/22 23:40
7月23日から9月4日まで
岩手県立博物館で「義経展」が開催されます。
こちらの会場でも販売いただいております。

7月30日の岩手放送・IBC「じゃじゃじゃTV」他で、「義経展」の招待チケットとともに、「源義経 夢の跡 探求地図」がプレゼント告知をされました。

当選された方、おめでとうございます。
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栗山大膳と盛岡

2005/07/22 23:31
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盛岡の愛宕山(あたごやま)には、福岡県・黒田藩の黒田騒動で有名な栗山大膳の墓がある。平成14年は栗山大膳没後350年だったそうだ。
さて、この栗山大膳が南部藩にお抱えの身でありながら、何処に住まいしていたのかという話題なのである。
下小路という地区に一本の巨大な栗の木があり、その元に「栗山神社」が祀られていたのだが、最近この栗の木も切り倒されてしまった。実はこの地が栗山大膳の屋敷跡ではないかと思われてきたのだが、どうも文献を紐解くとそれは間違いであるのかもしれない。

  謫屋敷は『盛岡砂子』によれば「丹後守殿屋舗 地所不詳、御当家秘書に、下小路裏に有。愚按に(中略)今油町より入口西側御堀端、長内氏屋敷の裏に古き屋敷跡あり。寛政の頃迄は畑中に大樹の梨の木有、其東北に三尺計りの土手有て今に無高。且つ此屋敷より表通道有しと古老の話なり、この地なるべし。『系胤譜考』内堀系に言う『寛文六年五月京極丹後守高国御預仰せ付けられ、此時新に謫所下小路に御造営これあり、程なく是へ移る』と有り云々」。

  現在この地に栗山神社があり、伝栗山大膳の屋敷とされているが、推してさほど古くない時期に同じお預り人である京極丹後守が栗山大膳とすり替わったものであろう。

ということから、下小路の栗山神社の地は大膳の屋敷跡ではないらしいようだ。
いずれにしても、先に書いたとおり、大膳の墓は盛岡にあるので、福岡と関係があることに変わりはない。この史実を大切にしていきたいと思う半次郎でした。

写真は下小路の伝栗山大膳屋敷跡に栗の木があったころ。
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屋島のマンホールは那須与一

2005/07/22 22:14
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屋島、正確にいえば香川県木田郡牟礼町のマンホールのデザインはなんと「那須与一の扇の的」である。
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古代の石笛

2005/07/22 21:43
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故姫神・星吉昭氏が「北の風あおあおと」というエッセイ集の「中津川」という作品の中で以下のように書いてある。
中の橋と、ひとつ下流の毘沙門橋との間に、数個の巨石が深い流れに打たれている。もし誰かが中の橋を渡って、そこから川面を見たとすれば、その石の存在に気をとめるに違いない。この辺りの喧騒を吸いとるように静かなたたずまいを見せるこの石に、私はかねてから魅かれるものがあった。人伝えに、この石には既に名前が付いているらしいことを聞いていたから、いつかそれを聞きだそうと、ひそかに思っていた。
石は六個ほど、実に意味のあるストーンサークルのように並んでいる。向こう岸は岩手公園になっていて、雪囲いされた樹木が美しい。岸辺に近い二個のひとつは、卵形の大きな石で、もうひとつは、その卵を半分に欠いた形をしている。
土手沿いの道路を挟んで、味噌の木津屋という盛岡でも古いノレンの店があった。店に入ると、ちょうど木津屋のおかみさんがいらしていて、「もう二十五年も前に、ここに嫁いだときから団子石と呼んでますヨ」と教えてくださった。団子石とは明快な名だ。なるほど、卵型のをそう呼んでいたのだ。言われてみれば、岩手のおばあちゃんが丹精込めて丸め込んだ団子のようなぬくもりが、その卵型の石にはあった。
しかし、私はこれらの石が、ただの団子石でないことに気が付いた。
石の上部に、小さな穴が三つ開いているのを発見したのだ。まるで、この石を笛にみたてて掘ったような穴である。半分欠いた方の石には同じような穴が五つあって、しかも、きれいに流れに沿うように並んでいる。一見する限り、穴は誰かが目的をもって掘ったとしか思えないのである。
青深い水は、時折、その穴を埋め尽くすように流れたり、実にタイミングよく、穴の辺りをなぞるように流れを変えたりしている。そのリズミカルな様をじっと見ていると、私自身の中にさえ、あるひとつの笛のメロディーが沸きあがるのである。
私は中津川の隠された謎を、ひとつ解いた気分になった。なぜ、中津川にいつまでも鮭がのぼるのか、その秘密を知ったような気分になった。
これらの石は、まぎれもない古代の石笛であるに違いない。しかも、中津川が吹く石笛に違いない。この石笛の音に魅せられて生かされた鮭たちが、毎年この川にのぼってくるに違いない。
団子石は、中津川の鮭を呼ぶ古代の石笛なのである。

写真は、「団子石」に並ぶ半分に欠けた「石笛」を思わせる石。現在も団子石はあるが、写真のこの石を確認することはできない。1999年撮影。
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「甦る東京駅」について

2005/07/21 22:38
甦る東京駅」について
http://www.jreast.co.jp/toko/development.html
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銀座の柳 −京都のシダレヤナギ−

2005/07/21 21:55
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この柳は、東京銀座から里帰りしたシダレヤナギです。「昔恋しい銀座のヤナギ」と唄われる「東京行進曲」に出てくる東京銀座中央通のヤナギは、道路整備のためその姿を消しました。
しかし、昔を懐かしんだ地元有志の方々が、その頃の風情をもう一度よみがえらせようと、残されたヤナギから二世を増やし、ヤナギ並木を復活させました。
「銀座」という名称は、京都の伏見が発祥の地と言われています。また、この「銀座のヤナギ」の親は、(京都の頂法寺)六角柳とも言われており、京都とは縁(えにし)の深いものです。
「銀座のヤナギ」を復活させた有志の方々から、「京都の文化」を頂いたご恩返しにとご寄付頂き、平成8年6月にヤナギの似合う高瀬川沿いの木屋町通に植樹いたしました。

京都・高瀬川沿説明板より

盛岡にも石川啄木が東京・銀座の朝日新聞社に勤めた縁から、「銀座の柳」がありますが、それらはすべて京都に祖をもつ柳の木ということになるわけですね。しかも六角堂。
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ごまスパ

2005/07/20 20:53
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材料
(人数分に応じて数量を加減してください)
舞茸
ニンニク 1かけ
とんがらし 好みに応じて輪切りを適量
黒ごま
オリーブオイル
塩・こしょう 少々
かつおだし 適量 (だしのもとにゆで汁でもOK)
大葉
きざみ海苔
スパゲティー 人数分(1人あたり100g)

つくり方
フライパンにオリーブオイルを入れてニンニクを炒める。
とんがらしを入れる。
舞茸を炒める。
すり鉢ですった黒ごまを入れ、軽くあぶるくらいにして塩こしょうをする。
かつおだしを加える(水びたしにならない程度)
ゆでたスパゲティーをあえる。
皿に盛りつけて大葉を細く切ったものを全体にかける。
きざみ海苔を上からドンと真ん中に置く。

これは『翔 氷川きよし物語/博多音楽サークル』に掲載されているパスタ料理レシピです。
たしかラジオ番組「ズンドコサンデーあっぱれきよし」でも紹介されたことがあるハズ。
それで、半次郎が作ったのが写真です。
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馬頭観世音のお祭り

2005/07/18 19:10
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盛岡市のその名も旧町名「馬町・うままち」に峯壽院(ほうじゅいん)として馬頭観音を祀る寺がある。正しくは、盛岡三十三観世音の第一番札所で、亀慶山城南寺 峯壽院である。
この寺はもと天台宗寺門派で近江滋賀郡別所村園城寺末。本尊は馬頭観世音菩薩。脇侍は延命地蔵菩薩と波切不動尊である。当院開山法壽法印は、下総(千葉県)千葉常胤の裔で、文治年間(1184-1189)下野(栃木県)に移り美濃郡を姓とし、のちに奥州江刺に転じて新渡戸と改めた。後年、稗貫郡里川口(現花巻市)に移住。慶長3年(1598)、当時の住僧は法明坊(得度前の名は新渡戸神酒之進)であったが、盛岡藩開祖南部信直公の尊信篤く壽緜法印の称を賜り、領内牛馬繁殖守護の祈願所となった。寛文3年(1663)4月盛岡城下馬町に寺院を移し、巌鷲峯(がんじゅほう・岩手山)の南方に位置しているところから「法」を「峯」とし、峯壽院と寺号を改めたという。この年自光坊同行となり、享保4年(1719)12月には利幹公より領内守札配布を許され、峯壽院の名は藩内遍く知られることとなった。
ご本尊馬頭観世音菩薩は、もと千葉常胤の内仏で、その仏徳広大にして一心帰依するとき諸願成就せざることなしと言い伝えられる。南部信直公以来歴代藩主から、特に野馬、飼馬、飼牛の守護霊仏として尊信され、ひいては東奥諸牧牛馬守護の至尊として信仰された。
なお脇侍の波切不動尊は、渡海中の弘法大師の一命を救ったという伝説ある不動明王で高野山南院に祀られていることで知られる。この不動尊は、内乱、外寇、日照り等の災厄時にしばしば祈願されたとされ、当地ではあまり拝することの出来ない仏様である。
この観音堂は、明治17年の河南大火で灰燼に帰し、新渡戸仙岳氏の先代がご本尊を守り、仮堂にお祀りしていたが、仙岳氏の発願で大正12年間口2間、奥行2間半の現在の御堂が再建されたもの。
夏祭りは7月18日、19日で、写真は近年から巡行が行われるようになった本堂前の万灯山車。
ここは神仏混淆が残されていて、石の鳥居が建てられている。

「馬町」における「馬市」の開設は万治元年(1658)で、盛岡二代藩主重直公の時代。明治に入って「馬検場・ばけんじょう」が設置され、明治45年4月に現・松尾町(まつおちょう)に移った。
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オラと背くらべだぞ!

2005/07/18 18:41
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義経背比べ石が話題である昨今(半次郎のブログだけ・・・)、なんと「背くらべしんちゃん」を発見しました。現場は盛岡市肴町(さかなちょう)の村源薬局(むらげんやっきょく)前。
テレビCMでもおなじみの「オロナイン液」の販促物なのであるが、そのセリフが「オラと背くらべだぞ!」になっている。
まるで義経背比べ石・・・と思い出さずにはいられなかった。
高さは1メートル程度・・・と思われますが。
しんちゃんブームはひそかに義経に接近??
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遮那王が背くらべ石を山に見て・・・

2005/07/18 07:11
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遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修行をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に下るとき、なごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。
遮那王が背くらべ石を山に見て
わがこころなほ明日を待つかな 与謝野寛
(鞍馬山・義経公背比べ石説明板より)

この背比べ石が丁度、木の根道の入り口にあることが面白い。
木の根道を行くと「大杉権現」があり、「僧正ヶ谷」と言われるあたり。そのまま進んでも木の根道を通らない道に繋がるのであるが、この道を通らなければ鞍馬山に来た意味が無いかもしれない。
確かに毎日毎日このような道を行き来していたとすれば身軽にもなりそうだとつくづく思うのである。しかしなんとしても、800年前もこのような山の姿だっただろうか・・・と思ってしまう。杉木立はそれほど大きな木でもない。しかし、山の土の具合が固く、もしくは岩盤などで、地中深く根がはれないとすれば、確かにその根は地上にこのような姿を現すかもしれない。
土が人の往来で削られたとすれば、それだけ修行の人々が歩いたとも考えることができるのだが、人が歩いたのでなければ、天狗が歩いた?いずれにしても神秘的な山道であると感じた半次郎でした。

この鞍馬山には与謝野夫妻の書斎が移築保存されている。与謝野夫妻は石川啄木とも交流があったため、函館・立待岬に行っても与謝野夫妻の歌碑を見ることができたのだ。(函館・立待岬には石川啄木一族の墓があります。)
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神姫バス

2005/07/18 06:43
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神姫バスと書いて「しんきバス」と読む。
大阪伊丹空港のバスターミナルを歩いていると、バス停の文字に目を奪われた。
「姫神バスぅ〜」いやいや「神姫バスっ」。
青い色が印象的なバスの車体。
姫神というなれば岩手・盛岡でいえば「姫神山・ひめかみさん」というピラミダルで女性的な山が石川啄木生誕地の玉山村(平成18年1月に盛岡市と合併)にある。
岩手山が男山とすれば姫神山は女山として対照的な景観を盛岡の街に見せているのである。
そして、「神々の詩」のシンセサイザーを奏でる「姫神」はこの姫神山からとったもの。
そんな盛岡との繋がりをだまっていても感じてしまうこのネーミングは「神」は「神戸」の「しん」であり、「姫」は「姫路」の「き」だったのである。ましてバスガイドさんの出身が宮城県・仙台市だったということもあり、盛岡から見れば比較的近い。
そんな話(関係ないといえば関係ないかも・・・)もありながら、ひさしぶりのバスツアーを楽しんだ半次郎でした。
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街 もりおか

2005/07/17 16:17
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盛岡に創刊37年を数える「街 もりおか」というタウン誌がある。

半次郎は今年から毎月、「盛岡伝説案内」の連載でお世話になっているほか、文化地層研究会会員の寄稿文や市内の建築物紹介などでも連載いただいている。
ということで、ここではこの「街 もりおか」を紹介しておきたい。
内容は盛岡市内外の著名人をメインとした方々の寄稿文が寄せられているもので、37年という長い時間発行されているタウン誌というのは、「銀座百点・銀座百店会」に次ぐものといわれている。

半次郎は小さいときから、このタウン誌の表紙が魅力的でした。
毎月カラー写真で盛岡市内の景色が掲載されています。
時には盛岡にこんなところがあるの?という景色がでてきたりします。
地元の人しか知らない話もあったりして、盛岡を好きな皆さんにぜひご覧戴きたいものになっています。

問い合わせは
杜の都社(もりのみやこしゃ)
〒020−0015 盛岡市本町通2−13−8
川口印刷工業(株)本町営業所2階
電話019−625−5835 FAX019−625−5835
E−mail morinomiyakosya@yahoo.co.jp
定期購読も可能です。お気軽にお問い合せください。
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甦る東京駅

2005/07/17 16:00
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東京駅は辰野金吾(たつのきんご)の設計によって大正3年(1914)に完成した。
盛岡には、同じく辰野設計のまさしく東京駅と同じデザインといえる旧盛岡銀行(現・岩手銀行中ノ橋支店/国指定重要文化財)があるが、こちらは明治44年(1911)に竣工している。
完成当時の東京駅は地下1階、地上3階、全長335メートルで当時は「アジア一」とも「世界一」ともいわれた建築であった。
交通博物館にある「中央停車場建物展覧図」には創建当時の東京駅の姿が描かれている。駅舎はすべて3階建てで、左右に大きなドームの丸屋根が存在した。しかしながら第二次世界大戦のB29の爆撃によって屋根と3階部分を失ってしまい、現在見る姿となっている。
辰野は堅固である理由から建築物に煉瓦を好んで用いていて、東京駅の赤煉瓦を日本煉瓦製造株式会社から調達しているが、この煉瓦工場は渋沢栄一が創設したものである。

何時半次郎のKenBunLogで、先に「ガス燈の創設は南部藩士に関わる話」を掲載し、東京・亀戸にて日本で初めてのガス燈が灯され、東京のガス会社の創設にも渋沢栄一が関わっているわけであるが、辰野金吾を通じて、建築物でも盛岡に縁があったということができるようである。
もっとも、盛岡の旧盛岡銀行の建物は、辰野とその弟子・葛西萬司(かさいまんじ)二人の設計によるものとされている。葛西の出生は岩手県平泉町であるが、盛岡の葛西家に養子となったため、盛岡の先人の一人として紹介されている。

2007年度には八重洲口に超高層ツインタワーや、日本橋口ビル(仮称)が完成する予定で、さらに2010年には創建当時と同じ姿の東京駅が出現する予定になっている。その姿で2014年の東京駅100年を向かえてほしいと願っている半次郎です。
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Mori-navi モリナビ できました

2005/07/17 10:05
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♪モリナビ モリナビ できましたっ!
思わず「いわてグラフ」できましたっ!のCMを思い出してしまう半次郎。
「モリナビ」は盛岡商工会議所が創立80周年記念・都南商工会議所との合併記念として「盛岡まるかじりマップvol.7」としてこのたび発行されました。
(半次郎は、「城下盛岡旧町名探求地図」のデータを提供したので、いち早く1冊いただきましたが、一般にはまだ出回っていないかも。7月20日発行になってマシタ。)
盛岡で食す。飲む、味わう…「もりおか」を楽しく満喫できるレジャー・カルチャー情報の決定版。観光客も市民もこの一冊で盛岡通!! 盛岡のショップ情報満載 モリナビ流まるかじり情報と題して特集はモリナビ版もりおか七不思議。エッセーは斎藤純さん(文化地層研究会副代表・リンク「流れる雲を友に」は斎藤さんのブログ)・柳田冨美子さん(柳田國男著作権代表・(有)緑蔭小舎(成城と遠野)舎主)が寄稿している。そのほか、もりおかDEEPガイドとして城下盛岡旧町名探求地図・映画館マップ・開運お守りMAP・岩手の温泉基礎知識・市場&産直マップなどを掲載している。

モリナビ版もりおか七不思議は、「盛岡城の七不思議」「食にまつわる七不思議」「石にまつわる七不思議」「創造力を育む七不思議」「先人たちの七不思議」「祭の七不思議」「盛岡の地名に纏わる七不思議」の七タイトルをもとに盛岡の魅力にせまる足がかりを紹介。ほかに盛岡市内の飲食店情報も満載している。

モリナビは、各種観光関連施設およびホテル・旅館等宿泊施設に置かれるほか、商工会議所をはじめ、市内有名書店でも販売される予定。
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京都・六角堂

2005/07/16 22:19
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寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。
開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、西国三十三ヶ所観音霊場(現18番の札所)となったと伝える。建仁元年(1201)、親鸞上人が当寺に百ヶ日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。
本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍石といい、古来、京都の中心にあたるとされてきた。
また本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出したところで、華道発祥の地として有名。現在も池坊華道の拠点となっている。
[六角堂前説明板より]

半次郎は、朝5時に起きて散歩したのですが、なんと六角堂は6時にならないと開門しない・・・。その後「松原橋」まで行ってくると、さすがにくたびれたので、ホテルに戻ったのである。残念!
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義経サミットin平泉

2005/07/16 21:50
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今年5月21日、平泉の観自在王院跡において「義経サミットin平泉」が開催されました。
基調講演にはNHKアナウンサーの松平定知さん。
さらに鎌倉市長と平泉町長の対談、全国の義経伝説史跡がある行政関連のみなさんの義経イベント・観光情報のご案内がありました。
この会場において配布されたパンフレット・チラシに「源義経 夢の跡 探求地図」を提供させていただきました。ありがとうございました。
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盛岡天満宮の石馬(狛犬)

2005/07/16 21:39
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盛岡天満宮拝殿の前に一対の狛犬が座っている。これは市内上小路に住んでいた高畑源次郎氏が制作して明治38年(1905)に奉納したもので、当時は地面に直に据えられていた。石川啄木はこの愛嬌ものをひどく好んだといわれ、昭和8年7月23日、啄木の歌を銅板に鋳造して台座を設けてはめ込んだ。
夏木立中の社の石馬も 汗する日なり 君をゆめみむ 啄木
松の風夜昼ひびきぬ 人訪はぬ山の祠の 石馬の耳に 啄木
啄木の小説「葬列」にもこの石馬が登場している。

半次郎は、この石馬の後ろ姿が大好きです。
天満宮拝殿に向かって右側が「あ」左側が「うん」なのですが、その左側の(写真)の石馬の後ろ姿は、本物の犬そっくりの後ろ姿です。
一度ごらんあれ。

[新庄町5 天満宮境内]
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ガス燈の由来 −創始者は南部藩士−

2005/07/16 21:22
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わが国における都市ガス事業の始まりは、明治5年(1872)、横浜の外人居留地にガス燈をともしたのが始まりである。ガスの利用については、これより17年前、南部藩士の手により発明されている。当時の文献によれば、安政2年(1855)、南部藩医師・島立甫(しまりゅうほ・玄燈)が、江戸亀戸の自宅において、コールタール製造の副産物として発生する石炭ガスに点火し、照明として利用した。同じ頃、水戸藩に招かれ、那珂湊に反射炉を製造した南部藩士・大島高任(おおしまたかとう)が、コークス製造の副産物利用としてガス燈をともしたという。ガス燈事業に始まった近代都市ガス産業の先駆者が南部藩士であることは、盛岡市民にとって興味深いことである。
[盛岡市岩手公園中の橋際説明板より]

さらにちょっと詳しい資料をみつけたので、ここに書き足しておきます。

日本で初めてガスを灯したのは盛岡出身者
照明用として横浜に灯ったガスが燃料用として盛岡に到達するのはかなりの年月を要したのですが、すでに幕末において日本でもガスを灯した二人の先覚者がいます。
偶然同時期、全く別の分野で文明の炎を発見した、その二人ともが、やはり偶然盛岡出身者であったこと。これは本当に驚くべきことであり、また誇るべきことでもありましょう。
1人は蘭医で舎密家・せいみか(化学者)の島立甫(玄澄)。文化4年(1807)盛岡城下医師の子として内加賀野小路(うちかがのこうじ)に生まれ、後にヨジウムを製したことで有名となった人物です。本所亀戸で行われたガスの燃焼実験については後年発行された「明治事物起源」などで知ることができます。
もう1人は、文政9年(1826)、同じく南部藩の医師の子として生まれた大島惣左衛門(後の高任)です。大島高任は岩手県民ならずとも知らない人がいない程高名な我が国の近代製鉄の父と言われている人物です。石炭からコークスなどを造る過程で副産物としてのガスに灯火したといわれています。
どちらが先に・・・という事はまだ明らかにされてはいませんが、いずれにしても、日本ではじめてガスに火を灯したのが盛岡出身、しかもどちらも南部藩お抱えの医師の子供という同じ境遇というのは偶然というほかはありません。
「街もりおか 2004 12月号」より
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清水順正

2005/07/15 22:21
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清水寺の参道の横丁を入ると「清水順正」という豆腐のお食事処がある。
その建物を見てオドロキなのであるが、そもそもは清水焼の窯元さんの屋敷だったとのこと。とてもステキな洋館なので豆腐のお食事に合わないような気がするも、なんのなんの。
いろいろな種類のお豆腐料理で満足すること間違いなしです。

盛岡もマケズに全国の県庁所在地のうちで、豆腐の消費量日本一なんですけど、そういう盛岡の豆腐から見ると、京都のお豆腐は、絹ごしと木綿を合わせたようなお豆腐でしたん。
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アテルイとモレの供養塔

2005/07/15 22:14
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清水寺の舞台の下にアテルイとモレの供養塔がある。
たしか記憶によれば胆沢城築城1200年の折、田村麻呂に降伏した東北(岩手県・胆沢地区)の「蝦夷・エミシ」の首長が「アテルイ」。とその家来といわれる「モレ」。二人は都に連れられ、田村麻呂は斬首しないことを約束するが、かなわず殺されてしまう。
このような歴史は東北・岩手でしか囁かれてこなかったかもしれないのだが、それを期として供養塔がここに建てられたものである。
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清水の舞台

2005/07/15 22:05
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「清水の舞台から飛び降りる」という言葉はよく言われるが、その舞台を支えているのは釘一本使われていないこの木組みの柱・・・。紅葉の緑が映えて美しく見えます。
平泉にもこの舞台を模して造られたという「達谷窟毘沙門堂・たっこくのいわやびしゃもんどう」がある。ここの創建も坂上田村麻呂。
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音羽の滝

2005/07/15 21:57
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清水寺の山号は「音羽山」。
その音羽山から湧いた清水が奥の院の舞台崖下、本堂東側の石段を下りたところに、三本の筧に分けられて、流れ落ちている。これが「音羽の滝」で、清水寺の名の由来。
この音羽の滝の水は、別に「金色水」「延命水」と呼ばれ、心身を清める霊水、お茶の水として大変珍重されてきたとのこと。
私は、今回、清水寺参拝4回目にして、初めてこの滝の水を口にしましたが残念ながら「ぬるい」。
冷たければ「無味無臭」で大変美味しかったのだろうと思います。
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源義経 夢の跡 探求地図

2005/07/14 22:30
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岩手県盛岡市の市民団体「文化地層研究会」では、今年4月に「源義経 夢の跡 探求地図」を作成いたしました。
義経の生涯31年の生誕から最期まで、そして北行伝説まで網羅しています。
行動範囲の最北端平泉と最西端壇ノ浦の直線距離は約1000キロ。
31年間の行程は6000キロ。
当時の1里は600メートルなので、実に1万里もの距離を馬か徒歩か船という交通手段で移動した人物は、そう他には見あたりません。
この行動力とともに全国にちらばる史跡をピックアップしています。
監修は平泉郷土館館長の大矢邦宣先生。
さらに寄稿文「義経讃」として中津文彦先生の書き下ろしも掲載しています。

入手方法はこちら
もりおか歴史の記憶探求館
http://www2u.biglobe.ne.jp/~taka-34/yoshitune/yoshitune_news.htm
文化地層研究会
http://bunkachiso.hp.infoseek.co.jp/bunka_yoshitsune.html
源義経ファンクラブ
http://www.taidoo.co.jp/minamoto/ad/chizu/index.html

7月23日から9月4日まで
岩手県立博物館で「義経展」が開催されます。
こちらの会場でも販売いただいております。

7月30日の岩手放送・IBC「じゃじゃじゃTV」他で、「義経展」の招待チケットとともに、「源義経 夢の跡 探求地図」がプレゼント告知をされました。

当選された方、おめでとうございます。
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宇治橋の「三の間」

2005/07/14 21:57
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宇治橋に「三の間」というところがある。
「三の間」は宇治橋特有のもので、その名前の由来は西詰から三つ目の柱間に設けられていることによる。三の間の最古の記録は、永禄8年(1565年)に松永秀久が千利休らを招いた茶会で、ここから汲み上げた水を茶の湯にしたというもの。豊臣秀吉が茶会の際には、この三の間から水を汲ませたという話は有名らしい。現在のような張り出しが設けられたのは江戸時代に入ってからと考えられている。
写真は三の間から見た宇治川の中の島。
現在も「鵜飼い漁」などが行われますが、その当時も汲み上げて茶の湯に出来るほどの清流だったのですね。
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鳳凰の尾翼

2005/07/14 21:49
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平等院鳳凰堂とはよくいったもの。
確かにまさしく鳳凰の姿・・・とおもいけや、今まで気にすることの無かった尾翼部分。
おお!尾翼の回廊があるではないか。
(写真は右側横から撮影)
平泉にはこの鳳凰堂を模したという「無量光院」の史跡があるが、そのスケールはこの鳳凰堂よりも大きかったという。しかしながらその尾翼まであっただろうか。「ん〜」
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宇治川中の島の「十三重塔」

2005/07/14 21:41
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宇治川にある中の島は「橘島」と「塔島」の二。その塔島のシンボルが石造りの十三重塔。この石塔は重要文化財に指定されており、大きさは国内最大。度重なる洪水などで倒壊を繰り返すたびに再建。よく、欠けたり割れたりせずにご無事で・・・。
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雨晴海岸・あまはらしかいがん

2005/07/14 21:29
富山県高岡市にある「雨晴海岸・あまはらしかいがん」に「義経岩」がある。
にわか雨にあった義経一行が雨宿りしたという伝説がある。岩の上には義経を祀る祠が建てられてあるが、このところ成長する松の木の根などで岩が崩落する危険性が高まったため、石の間にモルタルを詰める作業がおこなわれている。大河ドラマが始まってからは観光客も増えていて、今後の対策について、国や県に働きかけていくとのこと。
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広島の路電

2005/07/13 21:44
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広島市内も路電が走っていました。
路電の無いところに住んでいる私にとっては魅力的・・・
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原爆ドームも世界文化遺産

2005/07/13 21:38
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宮島とお別れして本土に到着。
広島市内に入ると緑豊かな平和公園の中に、これまた世界文化遺産に登録されている原爆ドームを見ることができました。
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日本三景・厳島神社は世界文化遺産

2005/07/13 21:35
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宮島の厳島神社は平成8年(1996)にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
桟橋からすぐの広場には鹿がたくさんいましたが、その傍らに
「日本三景」の碑ともうひとつ「世界文化遺産」の碑(写真)がありました。
私の住む岩手県では、平泉の文化遺産が世界文化遺産の暫定登録されて、本登録に向けて準備を進めています。
平泉にも、この形の碑が建つのだろうか・・・。
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台風16号の被害

2005/07/13 21:31
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厳島神社は昨年の台風16号の被害があって現在修復中。
正面拝殿の屋根も波トタンで応急措置をしている具合でした。
檜皮葺の屋根であるため、その檜の皮を調達するのに大変とのこと。
写真は、正式な昇殿口でありますが、その屋根の修復がやっと終わろうかというところ。
向こうに見える五重塔もすっぽり足場が組まれて覆われています。
台風の時は、拝殿の赤い柱の真ん中まで水がきたとのこと。
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夜の大鳥居

2005/07/12 21:04
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午後10時までだったでしょうか。
厳島神社の大鳥居はライトアップされています。
その姿が海の水面に映ってこれまたなんともキレイだこと。
・・・そうそう、さきほどは、陸づたいに歩いて鳥居をくぐることができたのですが、
あっという間に潮が満ちてきました。
こんな景色を見ながら床についた宮島の夜でした。
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厳島神社の大鳥居

2005/07/12 21:00
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宮島に到着したのは夕方。
陽がどんどん西に傾く時間帯。
なんと潮がひいていて、陸づたいで大鳥居をくぐることができました。
丹色がなんとも鮮やかです。
鳥居が海中となる部分には小さな「フジツボ」がびっしり。
アサリなどの大きな貝から小さな巻き貝もたくさんありました。
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宮島の鹿

2005/07/12 20:54
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広島、宮島といえば厳島・・・
「もみじまんじゅう」はいわずとよく知られたもので。
「もみじ」・・・紅葉は何処にあるんだろうと思いましたが、山のほうにあるようです。
紅葉より先に目に入ったのは「鹿」でした。
奈良公園の鹿より小柄な鹿さんたちです。
地面にはしっかり「黒豆」がたくさんありました。
心しなければならないのは、宮島で「紙」を手に持って歩いてはいけません。
すぐさま鹿さんがよってきてパクリと噛み付いたら放しません。
すべて食べてしまいますのでご注意を・・・。
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瀬戸内海

2005/07/11 21:36
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いよいよ松山港を出港する高速船に乗りまして、海路にて広島の宇品港を目指します。
瀬戸内海を横断するわけですが、他でもなく義経が平家を追った海でもあります。
一端海にでると右も左もどっちに進んでいるのかすらわからないこの海をよく行ったものだと考えさせられました。
西の方向は山口県と思いながら、早いはやい一時間半ほどで到着してしまいます。
途中、平清盛の史跡・音戸の瀬戸を通過しました。
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愛媛・松山の路電

2005/07/11 21:16
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私が今まで路電を見たことは、そう無く、昨年11月に北海道・函館で見た路電の記憶があるだけ。
「新撰組」のラッピング路電でした。
今回の旅行では、愛媛県・松山市にて路電を見ることになりました。
松山城は修復中でその姿をよく見ることはできませんでしたが、路電はよく見ました。
さらに、広島に行っても路電はありました。
けっこうあちこちにあるもんですねぇ。
愛媛に行きながら、ポンジュースもみかんも食べることはなかった。ざんねん。
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「盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木」について

2005/07/10 21:30
盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木」について
シダレカツラの由来の詳細については、以下のとおりとなります。

 現在でこそ、この木の苗は増やされて地元ではあまり珍しくもないようなカツラの木になっていますが、枝垂れのカツラの木というのは、世界中探してもおそらくこの盛岡に元を発するもの以外は存在しないはずです。つまりカツラの木の自然変種ということで、発見されるまでは何処にもない木でありました。
 400年ほど昔、盛岡市の大ケ生にある龍源寺の性翁慶守和尚が、稗貫郡大迫町の桂林寺に用事があって出かけると盛岡市砂子沢乙壁の山中で不思議な苗木を見つけました。カツラの葉を茂らせていますが、枝が下に向って下がっているのです。和尚さんは掘りだして道中途中の大迫の妙泉寺(現在の大迫町岳の早池峰神社境内)に仮植えさせてもらいました。
 もともとお寺では旧盆の時期にカツラの葉を取り乾燥させ、臼でついて細かくして「お香」として使っていたのです。普通は上に向ってのびる枝から葉を採取するというのは困難なものですから、枝が下に下がっているカツラの木というのは他でもなく大変ありがたいものでした。
 とあるお寺の小坊主さんが葉を取るのに難儀している姿を見かねた早池峰山の神様「瀬織津姫命(女神)」が枝を下に下げたという伝説もあります。
 さて、その見つけだしたカツラの木を帰り道に和尚さんが持ち帰り、龍源寺の本堂の裏に植えました。やがてこの木は大変な巨木となったため、文政2年(1819年)本堂の修繕工事の際に切り倒して鏡戸10枚をつくり、この戸は現在も残されているということです。
 切り倒された跡も、残された切り株から芽をだして現在見ることができる大木になりました。
 その時の切り株からの分根を現在、盛岡市肴町と盛岡市門で育った大木を見ることができ、この3本のシダレカツラは大正13年(1924年)12月9日、国指定天然記念物に指定されました。
 普通カツラの木というのは雌雄別苗の木であります。発見されたカツラの木は雄苗で、増やされた苗はすべて雄木ということになります。
 ここで、増やすということが問題になるわけですが、そのとおりもちろん実生の苗は存在するわけがありません。「挿し木」・「継ぎ木」で随分研究されましたが、根がついたという実例が全くなく、昭和10年(1935年)に台木の枝と接ぐ木の枝を寄せて接ぐという「呼び接ぎ」を故阿部善吉氏が考え、昭和45年(1970年)頃からワリツギ法が確率して現在ではあちらこちらで見られるようになったということです。
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源平屋島古戦場

2005/07/10 21:20
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屋島の古戦場の史跡は立石漁港に流れる相引川周辺に点在している。
いずれにしても、その当時はここは海であった。
むこうに見える山は五剣山。
一番有名なのは那須与一が平家の掲げる扇の的を射抜く場面である。
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屋島寺(やしまじ)

2005/07/10 21:11
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天平勝宝6年(754)に鑑真が屋島北嶺に創建。その後弘法大師が屋島南嶺に伽藍を造営した。四国霊場88箇所の第84番札所。本堂は重要文化財。弘法大師が道に迷った時案内してくれたのが四国タヌキの総大将「太三郎狸」であったという。源氏の将兵が刀を洗った血の池こと瑠璃宝池などがある。さらに展望台では高松港や瀬戸内海が一望でき、源氏が戦勝により笠を投げたことにちなむ「かわらけ投げ」がある。
以前は、ここを訪れる修学旅行生も多かったものの、少なくなったという。土産物屋もシャッターを閉めているところが多い。
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屋島から日が昇る

2005/07/09 19:07
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四国徳島県の高松では、「全日空ホテルクレメント高松」に宿泊。
ここの部屋の外には絶景が広がる。
向こうに「屋島」。眼下に「高松城」。そして夜間はフェリーが行き来していた。
朝を迎えると屋島から日が昇ったのでありました。
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盛岡伝説案内 其の七 盛岡原産の木

2005/07/09 18:59
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 昔、大ヶ生(おおがゆう)・龍源寺の住職に遠野の寺まで行ってくる用ができた。その道中、現・盛岡市内の山中、砂子沢(いさござわ)のあたりで、一本の珍奇な幼木を発見した。そこで、現・大迫町の岳の妙泉寺(みょうせんじ・現、早池峯神社境内)に立ち寄って、庭先にこの幼木を仮植えさせてもらい、遠野の用を済ませると、この木を持って龍源寺に戻った。さっそく住職は本堂裏にこの苗木を植えて成長を見守った。
 年月を経ると、この幼木は巨大な姿となった。一方、寺の建物も傷んできて改修ょ余儀なくされた。その際、この木を切り倒して、今でも残る本堂の鏡戸十枚に仕立てたということである。
 その後、この木の切り株からは萌芽が伸びだして、現在、本堂の屋根を超えて巨大な姿を山門前からでも見ることができるまでになった。さらに、その萌芽を分けて市内各所に植えたところ、ともに巨大に成長して国の天然記念物を受けるに至ったのである。
 この木「シダレカツラ」は通常の上部に向かって伸びる枝のカツラと違い、その名の通り枝が枝垂れていて、世界的にも無い、盛岡原産の珍奇種な木ということがわかった。よって、盛岡市の木は「カツラ」とされているが、本当は「シダレカツラ」のことである。
 そのようにして発見された木であることから、本来雌雄別株のカツラであるが、シダレカツラは雄木しか存在しないことになっている。
 カツラの葉は盆の頃、採取して乾燥させ香にするものだというが、採取に難儀する小坊主を見かねた早池峰山の神様が枝を下向きにしたそうな…。

『街 もりおか 2005 7月号 451号』より

※この文章中では、龍源寺の住職は「遠野」の寺に用事があってと書きましたが、正しくは大迫町の寺に用事があっての誤りでした。
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洲崎寺(すざきじ)

2005/07/08 22:19
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屋島が間近にせまり、義経弓流し跡が近いところに洲崎寺はある。
源平合戦の際、源氏軍が負傷した兵を運び込んだ寺と伝えられていて、義経を庇って矢面になって死んだ佐藤継信は、この寺の扉にのせられて運ばれたという。

ちなみにこのあたりの地名は「檀ノ浦」。
下関は「壇ノ浦」。(「きへん」と「つちへん」のちがい)
この屋島の合戦を別称「檀ノ浦の合戦」ともいうそうである。

・・・佐藤継信が亡くなったのは弓流しの時じゃなくて良かった・・・

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屋島

2005/07/08 22:12
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屋島とは、その形が屋根のような島で「屋島」だという。
まさしく茅葺き屋根を連想させる形をしている。
徳島県から香川県に入って、どんどん屋島が近づいてきた。
バスは草がたくさん茂っている野原の横で停まった。
そこには説明板もある・・・。
「義経弓流し跡」
もともとは、このあたりは海岸。
1185年の源平合戦で、義経は脇にはさめていた弓を落としてしまう。そこに平家方の越中次郎兵衛盛嗣が熊手をかけて危うく落とされそうになったところを義経は太刀で熊手をあしらい、左手の鞭で弓を拾い上げたという。
危険をかえりみなかったのは、源氏の大将の弓がこんなに弱いものかともの笑いになるのをおそれたからだったという。
写真は、その弓流し跡付近から見た屋島。
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たけやん

2005/07/08 21:59
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淡路島のパーキングエリアで明石海峡大橋を眺めつつ、
自動販売機を発見してあわてて買ったのは、写真の「たけやん」。
青竹付きの「ちくわ」。そのまんま「竹輪」である。
「おいひい」であり「まいう〜」であり「んまい」である。
・・・ここでビールがあったら最高だった。
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明石海峡大橋

2005/07/08 21:55
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そんなわけで、神戸から明石海峡大橋を渡って淡路島に上陸。
これが世界一の吊り橋・・・。
橋の上からは、丁度通過時間が手頃で「うずしお」が見えたのでありました。
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一ノ谷・鵯越の逆落とし

2005/07/08 21:51
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ここが一ノ谷といわれ、見上げる急峻な山。
どれほど急な崖を降りたのか。
そう思いながら麓をバスは走り抜けたのだが、
一ノ谷のイメージがいまひとつ・・・。
明石海峡大橋を渡った淡路島の端っこから神戸方向をみると一ノ谷の山が見えた。
この山を上から馬に乗ったまま下ったのが奇襲として有名な「鵯越の逆落とし」だという。
「一ノ谷」と「鵯越」は地名的には位置がずれていて、本当はどっちだといった論争もあるそうであるが、現場を見れば一目瞭然のような気がするのですが・・・。
でも本当にここを下ったのかとなると、どうなのか。
いずれにしても・・・スゴイというしかない。
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これが「青葉の笛」

2005/07/06 22:02
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須磨寺に伝わる「青葉の笛」とは、これである。
笛は吹いて使用しているうちはいいが、吹かれることも無くなって幾年月。
この笛はきっと手にとったら砂の如く崩れ去ってしまうのではないだろうか。
熊谷直実に呼び止められた敦盛、時に17歳。笛の名手で美少年だったという。
須磨寺境内には平敦盛の首塚(五輪石塔)がある。かつてはここに笛を奉納して子供の健康を祈る風習があった。
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義経腰掛松(須磨寺)

2005/07/06 21:48
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兵庫県神戸市須磨区にその名も有名な「須磨寺」がある。
ここは、松尾芭蕉も訪れていて、
「須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇(こしたやみ)」という歌をよんでいる。
ここでいう「笛」というのはかの有名な平敦盛の「青葉の笛」のことである。
ここに、熊谷直実が討ち取った敦盛の首実検をする際に義経が腰掛けたという松の大きな幹が置かれている。すぐ隣には首洗いの池がある。
この「義経腰掛松」は、まるで灰を掛けたように埃が被っているようなグレー色で、松の木らしさが殆ど見られない。
・・・阪神淡路大震災から10年。
須磨寺境内は復興普請途中でありましたが、通過した神戸の街の復興の様子に大変驚きました。
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弁慶のほろほろ漬

2005/07/06 21:30
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 岩手は今年の大河ドラマ「義経」のロケ地にもなっている「藤原の郷」がある江刺で製造している漬け物(刻みのしょうゆ漬)に「弁慶のほろほろ漬」というのがある。
 ピリ辛でご飯のお供に最適(私好み)なのでご紹介します。
 箱入りのパッケージには「奥州平泉 味の源義経主従東下り」と記されていて、「味の源」と「源義経」がかけてある。さらに平泉の秀衡塗りを思わせるような黒漆に赤の源氏雲。そこに金箔を施したようなデザイン。箱の裏には以下のような説明書きがあります。
 勧進帳 義経と弁慶
 山伏姿に身を変え、京を後にした義経弁慶の一行は、かつて知りたるみちのくの王者藤原氏を頼って、東下りの旅に出たが、たまたま安宅の関にて一行中に義経に似た者ありと厳しい取調べにあい、身の危険を感じた弁慶は、とっさに一策を案じ「こいつは義経にあらず」と金剛杖で義経を打ち、危く其の場を切り抜ける事が出来た。
人里はなれてから弁慶は義経の前にひれ伏し「役人をあざむく為とは申せ殿のお体に手をお掛けしなんとも申しわけござらぬ、どうぞお許しを」と詫びれば、「いやいや詫びるには及ばん。あれもみな予の為を思うての機転かえってうれしく思うぞ」と主従は手を取りほろほろと涙を流した。
 かくて幾多の苦難の末ようやく平泉に着くことが出来たのだった。
 此の弁慶の心情を銘記すべく南ばんを効かせた漬物に「弁慶のほろほろ漬」と名付けて発売している。
 ・・・ぜひ一度おためしあれ。
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教王護国寺(東寺)の五重塔

2005/07/06 21:11
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 鞍馬山を下りて京都の街に戻った。
 京都といえば、五重塔。
 はじめて京都に行ったときに最初に参拝したのは、この東寺こと教王護国寺であった。日本最大の五重塔といわれるだけあって、その巨大さには圧倒される。さらに、金堂内の仏像が何体も並ぶ曼荼羅空間では時が止まったような錯覚を感じたものだ。
 今回は、門前を通り過ぎ去るだけであったが、つくづくこの街は京都と印象づけられたのは、やっぱりこの塔の存在である。
 清水寺は参詣したものの、子安の塔にも行っていない。まだまだ京都の街で見ていない箇所はたくさんある。これがまた、ここを訪ねようとする目的になっていいのかもしれない。
 朝早く起きて六角堂にも行ったが、まだ六時前で門が開いていない。あ〜ん、残念でした。
 ちなみに「あじくらや 蕪村庵」というお煎餅やさん(六角せんべいもある)は六角堂のすぐ前でした。
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盛岡伝説案内 其の六 江戸のおもかげ

2005/07/06 20:57
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 去る二〇〇一年の五月に、北山の南部家菩提所「聖寿禅寺」の本堂入口に祀られていた南部家ゆかりのお地蔵さんが、市内中心部の桜山神社に移された。
 「おもかげ地蔵尊」と呼ばれるこのお地蔵さんの由来は、七千人以上もの犠牲者を出した安政の江戸大地震の際、盛岡藩江戸屋敷では、建物が全壊したにもかかわらず、お地蔵さんり守護により死者・けが人も少なく、特に子ども達を守ったとされている。
 南部藩江戸屋敷といえば、現在の東京都港区麻布の有栖川宮記念公園がその敷地の跡と伝えられていて、付近は大使館やインターナショナルスクール、そして高級マンションが建ち並ぶ閑静な住宅街となっている。公園に隣接して「南部坂」という坂がある道とともに、麻布警察署管内の「盛岡町交番」もある。江戸・東京のなかでも盛岡の薫りただよわせる箇所だ。
 このお地蔵様、そのお姿は摩滅していて、お顔の様子がはっきり伺えないものの、南部盛岡を見守ってきたことに変わりはない。
 昨今の天変地異の報道を聞くと、何時我が身と心配せずにはいられない。そんな時、このお地蔵さんにすがろうかと思う。水をかけ清めて手を合わせる・・・。
 「おもかげ地蔵」さんは、桜山神社の神門右手の手水鉢の傍らに据えられている。

『街 もりおか 2005 6月 450号』 より
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鞍馬寺のお土産

2005/07/05 21:55
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鞍馬寺の本殿金堂まで登らなければ手に入らないわけなのですが、ここのお土産でいくつかあるオススメのひとつがコレ。
もっとも、団扇で仰ぎたい気持ちになったのがホンネでありますが、丁度良く販売されていたのがこの「降魔扇」であります。
柴田晩葉さんの描いた図柄は、護法魔王尊と脇侍の遮那王(牛若丸)。
禍いを払い清めよこしまを正す祈りがこめられているとのこと。浄風と共に、清めの活力をお受け下さいと記されている。
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義経堂

2005/07/05 21:41
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鞍馬山参拝もなんとか目的の「義経堂」までは行かなければ今回の目的は達成しない。
途中の「僧正ガ谷」とよばれるあたりの「木の根道」は800年もの昔もこのような具合だったのだろうかと疑わずにはいられないものの、確かにこのような山道を夜な夜な往復すれば八艘飛びのような身のこなしは可能になるかもしれない。大変だけれどもこの「木の根道」を通って大杉権現を参拝することは鞍馬山に来た価値十分である。
「不動堂」というお堂が現れると、その前の大きな杉木立の合間に「義経堂」はあった。
7歳のときに鞍馬に入った義経は「東光坊阿闍梨(源義朝の祈祷師)」の教えをここで受けたのだという。平泉で討たれた義経の魂はここに戻ったとされ、護法魔王尊の脇侍の遮那王尊として祀られている。
さらに山道は奥の院に続くのであったが、魔王殿まで行くことはあきらめた。ちなみにそのお堂の周辺は日本庭園の源流といわれる磐座(いわくら)が囲んでいるとのことである。
鞍馬寺は宝亀元年(770年)に鑑真の弟子鑑禎によって草庵が築かれ毘沙門天を安置したのがはじまり。鑑禎は正月に鞍を付けた馬に導かれる霊夢を見て、登山すると鬼女に襲われる。それを助けたのが毘沙門天という伝説がある。
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源義経公背比石

2005/07/05 21:21
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鞍馬寺の本殿金堂から山道を進むと霊宝館がある。
しかしながら月曜日で休みだったので、毘沙門天さんにお逢いすることはできなかった。
このすぐそばには与謝野晶子の移築保存されている書斎の「冬柏亭」がある。
さらに進むと「牛若丸息つぎの水」がありましたが、しずくがポタリポタリという具合。
それでも3滴ほどいただきました。
さらに進むと「源義経公背比石」が現れた。
ホントに120センチ程度の高さの石。将棋の駒を思わせるような形。
ここから鬱蒼としている中は「木の根道」で大杉権現に至る。ここから不動堂まではもうすぐ。
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尊天降臨

2005/07/05 21:06
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義経供養塔からさらに山道を進むと中門がある。これを抜けて九十九折れの参道を進むと本殿金堂のある広場にでる。
この広場の南端に平安京を守るために鞍馬寺の本尊が降臨したという場所があり、「翔雲台」と呼ばれている。ここには本殿金堂裏の経塚の蓋石が置かれている。
鞍馬山は千手観世音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊の三身を一体とし「尊天」として信仰している。
翔雲台からは、比叡山の尾根を眺めることができ、晴れた日には遮那王も比叡の峰を眺めていたことだろう。
本殿金堂内で御朱印をいただくことができ、天狗の団扇様の降魔扇などを求めることができる。
さらにここから左の山道を奥の院へと進むのでした。
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盛岡伝説案内 其の五 盛岡の京都

2005/07/04 21:19
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 市の中央を中津川が流れていて「上の橋」「中の橋」「下の橋」の三橋がある。上下二橋の欄干には珍しい擬宝珠が附いているが、上の橋のは慶長十四年、下の橋のは慶長十六年と刻んであるが数個混在していて、中之橋と刻まれたものもある。この擬宝珠の由来はなかなか興味深い。
 南部十二代政行公の京都在番中の或る年の春、時ならぬ鹿の鳴き声が帝の耳にも届き、「奇怪の事である、洛の内外に触れて歌伏せにせよ」との命が下り、「春鹿」の御題が出された。その時の政行公の詠歌は、
 「春霞 秋たつ霧にまがわねば 思い忘れて鹿や鳴くらん」
この歌が天覧に浴すると鹿の鳴き声も止んだ。「辺土の武士にして歌道に堪能なるは神妙」と評価され、松風の硯を拝領するとともに「都にも優る歌人なれば何ぞ帝都の趣を在所へ移すべし」との言葉により加茂川の擬宝珠を勅許された。政行公は、在勤の期満ちて下向すると三戸城下熊原川の橋にこれを附し、金銀をちりばめて竣成した。その立派さは人々を驚かせ「黄金橋」と呼ばれた。その後、二十七代利直公に至り盛岡築城の時、これを移し数を加えて鋳直し、三橋を造ったとのことである。
 因みに中津川にはこの外、よの字橋、毘沙門橋があり、一方北上川には夕顔瀬、開運橋、明治橋の三橋があって、夫々美観と風致に富んでいると昭和初期の観光案内で紹介されている。
 岩手公園や中津川原の新緑萌えるこの季節は、橋の擬宝珠がいっそう映えて美しく見える時期でもある。
 写真は「下の橋」の擬宝珠。

『街 もりおか 2005 5月 449号』 より
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義経公供養塔

2005/07/04 20:55
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鞍馬山の由岐神社から少し右手に登ったところに「源義経公供養塔」が建つ。
ここは東光坊跡であり、牛若丸が遮那王となって7歳から約10年間住んだ場所と伝えられている。
鞍馬山の「木の根道」といった修行場は、この先1時間も行ったところになるのだが、灯り一つ無い山道を行き来した遮那王の思いはいかがなものであったのだろうか。
ここから、京の町に行き来するにしても大変なもの。
「ホントに牛若はここに住んで行ったり来たりしていたの?」と驚かずにはいられない。
やはり天狗の術を身につけたか・・・とも思ってしまうわけである。
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鞍馬の火祭りは由岐神社の祭り

2005/07/04 20:48
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鞍馬寺の山門をくぐり、ケーブルカーに乗らずに左の山道をいくと、突き当たりに由岐神社がある。
天慶3年(940)、鞍馬寺が御所から鎮守社として勧進した神社で、矢を入れて背に負う「靫(ゆぎ)」を祀って世の平穏を祈るところという。ここが鞍馬の火祭りが催される神社で、実際に用いる大きさの松明が飾られていた。ここでいただく御朱印にも「鞍馬の火祭り」と入る。
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盛岡伝説案内 其の四 桜雲石

2005/07/03 19:52
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 内丸の盛岡地方裁判所の前に国指定天然記念物の『盛岡石割桜』がある。戦前の観光案内には、『一株の櫻樹巨岩の中央を劈きて生じ他に見られない奇観である』と記されている。掲載した写真は平成五年頃に撮影したものと記憶しているが、現在より枝も多くて外科手術前最盛期の姿である。エドヒガンザクラともいわれる種であるというが、一般的なソメイヨシノに比べて大変花が小さいのが印象的な桜である。明治天皇東北御巡幸の折りにご覧に入れた際の「桜雲石(おううんせき)」という別名を持つが、その頃、これほどの枝振りは想像できなかったことであろう。
 さて、桜の木が割ったこの石は、力持ちの女性が投げた石との昔話もあるが、周辺に「三ツ石」や「烏帽子岩」などがあることから、この程度の石がこの場所にあっても何ら不思議ではない。
 この「石割桜」は庭師の藤村家で守られてきたが、先代の益治郎翁は、新渡戸稲造にこの桜を守り伝えることを約束した。益治郎の結婚式当日に裁判所で火災が発生するも駆けつけると水に濡らした半纏を振りかざして火の粉を払い、樹を守ったと伝えられている。
 盛岡の長く寒い冬を越えて、いち早いこの樹の花の便りが、この街に春を伝えてくれる。
 例年いくつになっても巨石に影を落とす桜の奇観が今時期は待ち遠しい。

『街 もりおか 2005 4月 448号』 より
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京都市左京区 鞍馬寺

2005/07/03 16:50
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源平歴史浪漫紀行もいよいよ今回の旅行目的のトップポイントのひとつ鞍馬山に入る。
「鞍馬山入山参拝の心得」というのがある。
鞍馬山は信仰の道場です。浄域を守るためにご協力願います。
1 大きな音を出したり騒いだりせず、静けさを大切に。
2 あきかん等のゴミ(役目を終えたもの)は、お持ち帰りを。
3 建物や設備等をきずつけたり、こわしたりしない。
鞍馬山は大自然の宝庫です。この自然を大切にしましょう。
1 火の用心に心がけて下さい。たき火はしない。タバコのすいがらも捨てない。山火事になると大変です。
2 草や花、きのこや昆虫、野鳥や獣、岩石等を取ったり、いたずらしたりしない。共に生かされている仲間です。
3 山林内にみだりに立ち入らない。自然を傷つけますし、マムシやハチ、ときにはクマもいて危険です。
4 倒木や落石等の恐れがありますので十分ご注意下さい。
と、案内のリーフレットに書いてある。
ガイドさんがいうにも、夏場は「ムシムシ」として暑く、その「マムシ」やなんかが「うじょうじょ」してたりするというのだ。
しかしながら、私が行ったときは快晴の中、涼しい風が吹き抜ける鞍馬でした。
いずれにしても「信仰の道場」。標高差235メートル距離2キロ弱ではありますが、なかなかの山でありました。
今回、奥の院の「魔王殿」までは行かず、「不動堂」・「義経堂」地点で折り返してきましたが、その往復コースで時間は3時間弱。しかも、月曜日だったため鞍馬山霊宝殿はお休みで見学無しでもこの時間です。
ツアーによっては、鞍馬寺の時間見積もりが1時間程度で、山門だけをくぐって帰るお客さんも多いとか。
義経の少年時代においては、それこそ身軽にもなる絶好の修行の場であったと思わずにはいられないところでした。
鞍馬寺内の様子はこのあと順次ご紹介していくことにしましょう。
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盛岡伝説案内 其の参 虎屋敷に梅の花咲く頃

2005/07/03 06:45
 盛岡の街中で目に見える残雪が少なくなると、「マンサク」や「サンシュユ」の黄色い花が、いよいよ春の到来を伝え、「梅」「桜」とほころび始めるのも、間近となる。例年、花見の賑わいを見せる盛岡城址の「梅林」のあたりに「虎屋敷」と呼ばれた所がある。
 その昔、大阪夏の陣に出陣した南部利直公は、帰りに駿府(静岡県)に立ち寄ると徳川家康公に労をねぎらわれて、カンボジアから献上された虎二頭を賜った。その虎は「乱菊丸」「牡丹丸」と名付けられた雌雄であった。
 ある時、「乱菊丸」は檻を抜け出したという。中津川畔を暴れ回り、負傷者が多数出るに至った。檻守も危機一髪という時、城主の利直公自ら鉄砲を撃ち放って退治した。その毛皮は参勤交代時の馬の鞍などに利用されて沿道の人々の目を騒がせたという逸話がある。
 さて、この虎の餌は、何であったかというと、生きた獣を与えたりしていたらしい。牛や馬だけでは足りずに野犬狩りをしたえう、いよいよ城下の飼い犬にまで命が下るようになった。そんな中、切支丹信者も生け贄の如くこの檻に入れられたというが、切支丹に虎が噛み付くことは無かったという。
 先の乱菊丸の事件以来、牡丹丸は「養虎山」の山号とともに正伝寺に預けられたが、老齢となった牡丹丸は、餌の犬に噛みつかれて最期をとげたようである。その遺体は城内に葬られ、上に石が置かれて「虎ヶ石」と呼ばれていたらしい。しかしながら、その石も蔵などを普請した際に撤去してしまったとのことである。
 いずれにしても、盛岡城内に虎が飼われていた時期があったのは実話で、毘沙門渕のあたりに響く虎の鳴き声は、城下の庶民に如何に聞こえていたものだろうか。

「街 もりおか 2005 3月 447号」 より
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義経伝説紀行ラッピング電車

2005/07/03 06:31
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今年になってから、東北本線の
盛岡〜一ノ関間の電車でJRの企画「義経伝説紀行」と題して義経・弁慶の絵・シルエット・笹竜胆をデザインしたラッピング電車が走っています。(外観だけですけど)
平泉・中尊寺では11月30日まで讃衡蔵テーマ展「平泉と義経」
平泉郷土館では11月10日まで特別展「源義経」を開催しています。
さらに盛岡では、
「義経展 〜源氏・平氏・奥州藤原氏の至宝〜」が7月23日から9月4日まで岩手県立博物館で開催されます。この展示中講演会は
7月31日「平家納経と中尊寺経の美」有賀祥隆氏
8月7日「ぼくらのヒーロー“義経”」千葉信胤氏
8月21日「義経を受け入れた平泉の文化と思想」大矢邦宣氏
9月4日「義経北行伝説」金野静一氏
関連イベントは
7月24日伝統芸能鑑賞会「神楽を楽しむ」源平合戦にまつわる演目
8月25日「義経の笛を聴く会」薄墨の笛のコンサート
展示資料説明会は
7月30日・8月28日 に予定されています。
時間等詳細は、岩手県立博物館 電話019−661−2831 にお問い合せください。
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文化地層研究会 地図製作由来

2005/07/02 05:29
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6月24日」について
今頃気付いたので記しておきます。
6月24日は、現在の文化地層研究会に至る発端の「地図製作ひらめきの記念日」であります。
会自体は2000年に発足なのですが、活動が躍進したといえる地図発行に関して、そもそもの発端が6月24日でありました。
地図製作発案の発端というのは、写真の盛岡市・県庁市役所前バス停に由来します。以前は「内丸(うちまる)」というバス停でした。しかし、2001年春に名称が変更されてしまいます。
「古い地名を残していくにはどうしたらいいか」がはじまりでした。
当時、まるとさんの「イワテライフ日記」のサイトの掲示板でこの話題が持ち上がり、ここに書き込んでいた人がオフ会、つまりはフォーラムの分科会「盛岡地名保存分科会」に集ったことが文化地層研究会の現在に至る会員基盤を築きました。
それが6月23日のこと。フォーラム終了打ち上げで地図製作を思い立ったのが6月24日早朝ということになるわけです。

盛岡の地図を作るというのにはとっても思い切りが必要でした。既製の地図をトレスすることからはじまり、旧町名の位置や範囲をその上に落としていくというのは、とっても難儀なもの。
・・・「よぐつぐったべさ こんなの」と今になって思う私です。
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「仙臺文化」をいただきました

2005/07/02 05:01
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宮城県・仙台市の渡邊慎也様から
杜の都の都市文化継承誌 仙臺文化 2005年5月 創刊号
をいただきました。
これは、そのタイトル通り、都市文化をメインとした「タウン誌」です。
盛岡のタウン誌「てくり」では、創刊記念イベントの開催に際して助成金を使用したとのことでしたが、この「仙臺文化」さんでは、発刊に助成金を使用しています。
そして、やっぱり「てくり」同様にスポンサー、つまりは広告を掲載しないという主旨があるようです。
私の文化地層研究会でも、会の発行販売物には広告を掲載しないできました。
スポンサーとなってくださるところには申し訳ないのですが、私たち一般市民が必要とする情報印刷物は紙面がもったいないので広告掲載は控えたいと思うところ。
ま、つまりは、スポンサーを募らず、自分たちで出資して製作するという方法で賄われているわけでもあるんですけどね。
「仙臺文化」も「てくり」と同様の紙質で、A4版24ページ。付録に「昭和3年仙台盛り場地図」があります。これまでの歴史書等に未採録の新史実掲載を基本に、郷土の歴史を見て知る情報誌として長く続けていきたいとのこと。

「仙臺文化」へのお問い合せは編集室 渡邊慎也さん 電話・FAX 022−249−6530
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城郭めぐり

2005/07/02 04:36
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6月上旬に行った「源平歴史浪漫紀行」ツアーでは、外観だけでも城郭を見る旅でもありました。写真は京都・二条城です。内部はまだ見たことが無いので、今度京都に行ったらゆっくり見たい箇所のひとつです。
この「二条城」が城郭巡りのはじまりでした。
その後、高松城・松山城・広島城・福山城・姫路城と見ることになりました。
「高松城」は、ホテルから全容を見下ろす具合。海の水が濠になるめずらしいタイプ。
松山といえば、道後温泉・坊ちゃんで有名ですが、現在、「松山城」は修復中。
ずいぶん高いところに建ってるな〜っていう印象を受けました。
「広島城」は見られると思っていなかったのですが、広島は食事タイムだったので若干の時間の余裕があり、バスの運転手さんが「原爆ドーム」から「広島城」まで廻ってくださいました。
「福山城」も予想外。まさか新幹線の沿線すぐにあるなんて。
とっても観光的にいいなぁ〜と思いました。
そして、おなじく新幹線車窓から「姫路城」。新幹線からもっとも長い時間見ることができる城郭と聞いて期待していたのですが、なんせ「のぞみ」でしたし、思いの外新幹線駅より遠くにあったんですね。
「ずいぶんちっちゃい」
今度ゆっくり見に行きたいものだと思いました。
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盛岡伝説案内 其の弐 消えた手形

2005/07/02 04:13
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 二月・如月を迎えると暦のうえでも春を迎える。しかしながら、盛岡のうららかな春の到来はほど遠い。そんな中、立春を迎える行事「節分」がある。神社や寺院などでのいわゆる「豆まき」は盛んであるが、昨今の一般家庭で「節分行事」は続けられているだろうかとも思うところ、近年では、その年の恵方に向かって太巻き寿しを食すということが行われる様になってきた。
 さて、「節分」といって登場するのは「鬼」であるが、盛岡の三ツ割辺りにも、その昔「羅刹(らせつ)」という鬼が現れて、庶民に悪さを働いたそうである。困り果てた人々は、三ツ石の神様に三七、二十一日の願をかけたところ、鬼を捕らえてくださった。二度とこの地に現れて悪さをしないことを約束した鬼は、その印として三ツ石に手形を押して去ったという。
 この伝説が伝わる「三ツ石神社」には、現在でも確かに石が三つある。いや、「石」というよりも「岩」というのがふさわしいほど巨大なものだ。もともとは一つの石が割れたものであることが伺えるところから、この地区を「三ツ割」と呼ぶ地名由来も満更嘘では無いらしい。それに、鬼が来ない所というのが「不来方(こずかた)」になったといい、まして、岩に手形は「岩手」の名の起こりともなっているのだ。そのようなここは、修学旅行生をはじめとして、県内外から観光客がわざわざ訪ねてくださる所ながら、最近、肝心なものが見あたらない。それは「鬼の手形」。
 ・・・私が小学生の頃、市内にこのような場所があると知って初めて訪れる時、周囲の大人はこう教えてくれた。「手形のところはコケが生えないんだよ」「雨上がりに行くと良く見えるよ」・・・それは手形といって一つや二つではなかった。その時分では、大人の手の大きさほどのもので、ベタベタと、あちらこちらに見られたものであった。さらにその頃は、神社の境内も木々の茂りが深く、鬱蒼としていた感がある。現在では岩に陽が燦々と降り注いで、あおあおといていたコケのほとんどが枯れ落ちてしまい、「三ツ石」はただの「岩」と化してしまっていた。
 鬼が去ったことで、飛び跳ねて喜ぶ人々が踊ったのが「さんさ踊り」の発祥でもあるというのだが、もしかしたら、約束の手形が消えたとなるとまた「鬼」が現れて悪さをするのではないかと心配になったりするのは、私だけかもしれない。

『街 もりおか 2005 2月 446号』 より
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盛岡伝説案内 其の壱 義経石は何処

2005/07/02 03:48
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 全国的にも義経・弁慶伝説の地は多く、中でも弁慶伝説の石というのは数多く残されているらしい。今年のNHK大河ドラマは「義経」ということもあり、この連載の初回には、関わる伝説を紹介したいと考えた。
 衣川から京都の町に帰りたいといって運ばれ、置かれた地の名前は「弁慶石町」という伝説の石もあるが、私が印象深いのは奈良県吉野の吉水神社境内にある「弁慶力釘」という、石に鉄釘が打ち込まれたもの。岩手県内でいうなれば、遠野にある「続石」が有名だ。
 こんな義経・弁慶伝説、盛岡にもあるものかと探ったところ、思いも寄らぬところから「弁慶石」なる記述を発見したのであるが、さて、何に書いてあったのかは私の記憶に無い。しかし、そのご当地を訪ねてみれば、いかにも「弁慶石」なるものを現在、誰でも目にすることができる。
 盛岡天満宮・通称「天神さん」。お参りするにはいささか難儀な石段が続く小高い山であるが、ここは石川啄木が愛でた「石馬」なる「狛犬」があることでも有名。ここを普通に参詣したのでは、その「弁慶石」のお目に掛かることはできない。石段は西側と東側に登り口があり、盛岡中心部から向かってよく利用される石段は西側で、その左横の山道を歩くと、途中で石川啄木の歌碑を拝することができる。さて、問題の反対側(東側)の石段。私のお薦めでいうなれば、わざわざ山麓の道路を廻って見ていただきたい。下からその石段を見上げれば中腹に「弁慶石」といわんばかりの巨石を見ることができる。
 その姿は丸みを帯びていてゴツゴツした感はなく、石質は地元でいうなれば「ゴマ石」と呼ばれる花崗岩。石の後ろ側や下の方などの全容をよく確認することができないので、この石を持ち上げた弁慶の姿を想像するまでには至らない。
 この石の由来ではその昔、並んで「義経石」も存在したというが、現在ではその事実を知る由も無く、「義経石」は盗まれたそうである。ここで「盗まれた」という表現は正しいかどうかわからないわけで、単なる山石だと思われて持ち運ばれてしまったのかもしれない。
 義経北行伝説もあるが、義経・弁慶共に盛岡の地を踏んだことは想像できる範囲に及ばないところ。それでもひとつ盛岡の街の傍らにこんな伝説が残されていることが私は嬉しい。

『街 もりおか 2005 1月 445号』 より
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